二言三言:「自分の勧めで脱退した人数」は、妥当な言い方なのか?
(明慧日本)ネットでの交流文章を読むときに、ここ何年師を手伝い、法を正し、衆生を救い済度すると言う法を正す進展で、何百人、何千人、更に何万人の“三退”の勧めに成功して、とても人数が多いと言う内容をよく見かけますが、確かにこれは精進していない同修に対して促進作用があります。しかし、更に修煉上の更に高い要求という立場から見れば、ちょっと問題があるのではないかと思っています。
一つはこれらの人数はどのようにして統計したのでしょうか。自分で記録を残したのでしょうか。(私は自分の経歴と身の回りの経験から見て、記録を残したため、邪悪に隙に乗じられて、迫害されたケースがあまりにも多すぎたのです。だから、安全面のことを考えると、やはりそれを残さないほうがいいと思います。)実は私たちの行ったどんなことでも、師父と衆神がちゃんと見られているのです。そうすると、また記録を残す必要があるのでしょうか。
第二には、それらの人は本当に自分だけの力で救ったのでしょうか。そうとは限らないでしょう。たくさんの同修の文章の中にこんな内容が書いてありますが、つまり、資料を読んだことがあるから、真相が分かるようになり、勧めれば、直ぐに三退に同意する常人もいるし、真相の書いた紙幣を見たことがあることから、それを話題にして、簡単に三退を認める常人もいるのです。その場合、リレーのようで、ちょうどあなたが最後の番になったようなことではありませんか。この常人を救ったのは前の同修の努力と関係しているのでしょう。考えれてみれば、真相資料を作る大法弟子は実に苦労をしており、機械や消耗品の購入、インターネットの利用、ダウンロード、印刷、装丁、切断、貼り付け、それから包装、この一連のことを通して始めて仕上げ、たとえ紙幣に書く真相の短い言葉さえも、同修が丹念に書き入れ、リスクを背負って配っているのです。常人に配った一枚に真相資料に、どれだけ大法弟子の心血が注ぎ込まれていることでしょう。海外での新年祝賀祭も同じですが、かつて華やかな衣装を身に付けた演技者の素晴らしい演目を見たさいに、その裏で黙々とサポートしていた名もない同修、入場券を促進販売していた同修、それから、大法弟子の経営した新聞、テレビの作用にかつて思い至ったはずです。新年祝賀祭が衆生を救い済度する役割を果たしたのは、参与した同修とも皆関係しているのです。このことに関しては、師父も説法の中でも十分に認められたのです。
だから、大法弟子は一つの全体であり、人を救い済度したのは法です。自分がどのくらいの人の「三退」を勧めたという言い方は、ちょっと妥当ではないと思います。私たちはただ人を救いたいという念願があるだけで、実際のことは皆師父がなさておられるのです。個人の認識ですが、不適当なところがありましたら、慈悲なるご指摘をお願いします。
2007年11月25日
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2007/11/21/166924.html)
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