■日本明慧 http://jp.minghui.org/2007/11/26/mh272139.html 



迫害に反対すると同時に、内に向けて探さなければならない(下)

 文/中国大陸の大法弟子 明思

(明慧日本)今度の迫害を通して、同修からの注意、師父からのお諭し、更に旧勢力の「悪で悪を制する」という方法での試練に頼るのではなく、自ら進んで内に向けて探さなければならないことがもっと分かるようになりました。そうでなければ、それは精神病院の医師がスタンガンを手にして、ちょっと振って見せただけで、主意識が元気を取り戻すと同じように、一時恐れたため執着心がなくなったかのように見えますが、自ら進んでそれを取り除いたのではないため、環境が緩むと、また立ち返るのです。

 内に向けて探すべきだからと言って、それは別に邪悪に妥協し、私たちに間違いがあるから、迫害されたのも当たり前だという訳ではありません。大法弟子は迫害に反対しなければならないことを我々ははっきりと認識しなければなりません。宇宙も法で正され、最もミクロから最もマクロまで宇宙のあらゆる生命は皆法を正すことの中で新たに自分の位置を定められているのです。だから、淘汰される生命が大法弟子の修煉の道を按排する資格があるのでしょうか? それらの按排した道を歩んでしまえば、宇宙の特性から外れた、せいぜいそれらの不純で変異した基準に達するだけで、これでは法を正すことをやらないことと同じではありませんか。それは師父の要求ではありません。師父は宇宙を先天的な最も純粋な状態に戻し、更に旧宇宙のたくさんの不足を完備させ、生命を元の状況を遥かに越える純粋で素晴らしい境地に戻らせようとしておられるのです。

 それは旧勢力にはできないことですし、宇宙の如何なる生命にもできないことなのです。だから、宇宙の如何なる生命も謙虚な気持ちで今度の法を正すことに対処し、無条件に宇宙大法に同化して初めて新しい宇宙、未来に入る事ができるのです。そういう意味では、大法弟子にとっては、旧勢力の如何なる按排も、根本的に否定しなければなりません。師父はただ旧勢力の按排を利用して、異なる境地の生命を異なる位置に置かれているに過ぎません、大法弟子は迫害に反対し、衆生を救い済度する中で大法弟子としての更に大きな威徳を樹立し、最終的にはやはり師父の要求を達成しなければなりません。

 したがって、我々は考えの中で旧勢力の按排を徹底的に否定し、法の要求、師父の要求に従って行わなければなりません。それに、それはただのスローガンではなく、本当に法に溶け込むように確実に己を修めなければなりません。迫害の最初のころ、我々は法を実証することを行う時に、多くの人心が混じっていたのです。例えば、自分の円満への一歩を踏み出せるとか、魔窟の中で自分が如何に確固たる信念を持っているかとか、天安門広場で煉功して、如何に感じがいいとか、修煉がもうすぐ終わるから、表に出て行かないと、円満できないと思うとか、更に魔窟で自分を試練しようと思うとかいう心、要するに、自分を実証する心、つまり「私心」を持っていたのです。この私心は旧宇宙の生命の本性で、我々は迫害に反対し、新宇宙の生命に成就しようとするならば、この私心を取り除いて、完全に大法を実証するためという基点に立ち、真相を伝え、衆生を救い済度しなければなりません。我々が自分のあるべき位置で円満し、新しくなった自分の世界に戻ったとき、きっと自分の成就したすべては実は我々を作り上げてくださった大法がもたらしたもので、我々の無私の本性を作り上げてくださった師父の賜物であることがもっとはっきりと分かるに違いありません。その時、宇宙のすべての生命が謙虚な気持ちで我々の師父を称賛するでしょう。その「無私無我」の新しい境地こそ我々の天体が圓容不滅する根本的な保障なのです。

 同修の誰かが迫害されると、「きっと彼に漏れがある」とか安全面のことを注意しないとか、落ち着いて法を学ばないとか言って、その同修を責めたり、或いは「彼の心性に問題がある」とか言って、その同修を見下げたりして、迫害されたのも当たり前だと思っている同修がいます。それは迫害の初期に、迫害された同修を羨ましがる現われと比べれば、もう片方の極端に走った認識なのです。それから、毎日迫害があるから、それは自然な現象で、どうしようもないと思い、正念を発して、救援の施策を採っても、しばらく経って、効果がないのを見ると、止めてしまう同修もいます。ひいては、「警察も居候するものではない」と言って、自分が巻き添えにされたら大変だと思って、全然援助しようとしない人もいます。程度は違いますが、これらの考えは旧勢力の迫害を認めることになり、人為的に邪な魔を養うことなのです。

 同修が如何に修めたか、心性がどうであるかに関わらず、旧勢力も手を出す資格がないのです。それらの目的は衆生を淘汰し、壊滅することです。これらはいかなる生命をも救い済度する能力を持っておらず、それらの手段で大法弟子を新宇宙の異なる次元で円満成就させることもできません。それら自身は法から外れた生命で、淘汰されるべきなのに、どうやって大法弟子を試練する資格があるのでしょうか? それにこの世に降りてきたたくさんの生命はその本質が旧勢力の次元を遥かに超えているのです。

 法を正す時間が長くなると、程度が違いますが、我々は麻痺したり、怠ったりで、法を正すことが早く終わることを望んだり、何年も法を正すことの終了を望んできたのに、やはり迫害が続いている、まだ8年か10年かかるのではないか、迫害されないように気をつけながらゆっくりやっていこうと思ったりしているのです。実は法を正す過程が今日に至り、世の人々の態度や世間の情勢の変化は我々がよく感じられるはずです。それは大法弟子が長期にわたり弛まず真相を伝えることがもたらした結果ではありませんか? そして、法を正す進展の足を引っ張ったのは我々が勇猛に精進しないからではありませんか? 旧勢力はまた大法弟子を試練することを口実にこの迫害を維持しようとしています。この背後に我々の要素もあるのではないでしょうか? 全世界の大法弟子が同じ時間に正念を発すれば、5分間ですべての邪悪な要素を全部解体できると師父がおっしゃったのではありませんか? 我々はよく行なったのでしょうか? もっと大事なのは、偉大で慈悲深い師父は更に多くの生命を救おうとしておられるのです。この世の多くの常人は皆相当な身元があり、彼らは広大な宇宙とつながっているのです。師父はできるだけ彼らに救い済度されるチャンスを与えようとしておられるのです。われわれは「無私無我」な境地まで円満成就しようとしているのではありませんか? そうすれば、迫害に反対し、衆生を救い済度することは、ちょうど我々のこの本性に基づいての表現ではありませんか? これは自己保身をするために衆生を壊滅しようとする旧勢力の表現とちょうど逆なのです。

 こういう意味では、大法弟子が迫害に反対することはこれにより、もっと殊勝で、慈悲で偉大なことになります。我々はこの万古の機縁を大事にし、本当に法を正す中の一粒子にならなければなりません。自然の変化、情勢の変化、常人からの恩恵に執着するのは皆我々を新しい生命として作り上げようとされる師父の願いに背くことになり、宇宙の衆生が我々に託した期待にも背くことになるのです。

 だから、迫害に反対すると同時に、内に向けて探さなければなりません。これは法を正す時期に大法弟子が迫害に対して採るべき姿勢で、どちらに偏ってもいけないと私は思っています。それは我々が邪悪を徹底的に解体し、新宇宙に入る保証でもあるのです。

 以上は個人の悟りですが、漏れや不適当なところがありましたら、同修の皆さんの慈悲なるご叱正をお願いいたします。

 2007年11月26日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2007/11/10/166236.html

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