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慈悲をもって対処する


 文/台湾の大法弟子

(明慧日本)私たちはある古跡の向こうで真相を伝えていましたが、ここ数年来、古跡の管理者によくいろいろな制限を設けられました。私たちが許可されている歩道で資料を配っても、彼は干渉してくるのです。何度も彼に真相を伝えましたが、やはり効き目がありませんでした。もちろん、それは私たちが以前よく行なっていなかった行動、例えば、常人の状況を省みずに無理矢理に真相資料を渡したため、常人がそれをやたらに捨てたこと、あるいは、私たちの立っている場所が観光客の出入りを妨害したことから彼によくない印象を与えたことに原因があります。管理者のこのマイナスの態度に対して、彼に真相を伝え、正念を発し、彼を救い済度しなければならないと私は口先で言っているものの、心の奥深くにはやはり闘争心が潜んでいて、彼の行動を妨害のように見なしていたのです。つまり、私は彼に好感を持っていないのです。しかし、このような状態で、彼を救い済度する事ができるのでしょうか?

 我々の行動は法律で許されているので、以前の私は彼にその理屈、世間に通用される理屈を主張していました。しかし、彼に理屈を言っていた時、私は心が動じなかったでしょうか? 彼が聞こうとしないとき、私は闘争心を引き起こさないようにすることができたでしょうか? 理屈を言う傍らで、事柄自体の正誤にこだわってはならず、それは実にたやすい事ではないと思っていました。

 ある日、私は突然師父の『法輪大法—オーストラリアの修煉者に対して法を説く』のスパイに関する説法を思い出しました。「もし私たちの場が正しいのであれば、スパイが入ると、その背後にあるよくない要素が直ちに解体されることになるのです。その時、その人はまだスパイなのでしょうか。そうではありません。彼は頭に正念が満ちているのです」という意味のお話を師父は言われました。このお話から、スパイでさえも正されるなら、まだ正されない人がいるのでしょうか? 我々の場が正しければ、誰であっても、この場に入った人は正念が満ちるようになると思いました。

 そして今日、私は出発する前に、出会ったどんな常人でも救い済度される相手で、慈悲をもって対処しなければならないと悟りました。そして、同修に対しても同じように対処すべきだと私は自分に言い聞かせました。今朝早く観光地の古跡にたくさんの観光客が訪れました。しかし、同修たちは着いてから、何かを議論していました。わたしは心が動じてはいけない、善意をもって同修を理解すべきだと心の中で自分に注意しました。同修に横断幕をかけてもらってから、私は向こうの歩道に行って資料を配り始めました。私が胸に慈悲なる心をいっぱい持っていると、効果はとてもよかったのです。しばらくして、「また配っている」という管理者の声を耳にしました。彼は自転車に乗って、そこを通りながら、止まることなくこの言葉を言ったのです。その時、私はちょうど常人からの質問に答えているところだったので、返事をする余裕がありませんでした。もうちょっと経ってから、彼はまた自転車に乗ってやってきました。やはり通りながら同じ言葉を言いました。私は急いで「こんにち! ありがとうございます!」と返事をしました。そうしたら、その後、管理者はもう二度と来なくなったのです。そして、いつもと違って、彼は無理やり私たちを追い払うこともせず、態度もやさしかったのです。

 今日まで修煉してきて、私はますます「内に向けて探す」ことの威力を感じるようになりました。問題が起きた時は、つまり私たちが内に向けて探す時なのです。この管理者については、今までずっと彼の背後に邪悪があり、彼とは「救い済度するか、済度されるか」の関係ではなく、「迫害するか迫害されるか」の関係だと見ていたのです。だから、彼の背後にある邪悪を取り除き、彼を救い済度していると私は思っていても、彼は態度を変えなかったのです。内に向けてよく探すことを通して、私は自分の慈悲なる心がまだ足りず、闘争心がまだあり、そして法からずれた同修の行動をとても気にしている心を見つけました。それを取り除いて、よく行なった時、その場全体はとても慈悲で穏やかであり、なんと素晴らしいことだろうと感じ取れたのです。

 少しの会得ですが、不適当なところがありましたら、慈悲なるご指摘をお願いします。

 2007年12月1日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2007/11/28/167264.html