日本明慧
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如何なることでも、基点を正しく置くべきである


 文/中国済南大法弟子

(明慧日本)最近、私たちは13人くらいの同修が集まり、師父の『法輪大法—オーストラリアの修煉者に対して法を説く』を一緒に学ぶことにしました。定刻になって正念を発する時、急にノックする音がしました。開けてみると、地元の警官(三退済み)でした。そこへ、その家の主人が出てきてちょっと挨拶してから、彼は立ち去りました。この突発事件に対して、その場にいた同修の考え方も色々違いますが、彼の背後にある邪悪の要素を取り除くように正念を発する人も居れば、報告に行かせないようにと正念を発する人もおり、全然心が動じず、引き続き正念を発する人もいます。

 その後、その家の主人が電話でその警官に事情を説明しましたが、ついでに訪ねただけで、別に用事はなく、もし皆がそこにいると分かっていれば、入らなかったとその警官は返事しました。

 そして、この突発事件に対して、その時彼に入らせるべきでないと言う同修もいれば、皆が集まっていると分かっているから、わざわざ来たのだ、それは妨害だと言う同修もいます。それは偶然なことではなく、我々の心に対する出来事だと私は思いました。それから、このちょっとしたことで、我々の心がこんなに動かされたことは、我々の誰もが自分の修煉状態を真剣に反省しなければならないとも思いました。

 このことを通して、同修の皆さんと正念を発する基点について交流したいのです。どんなことでも同じですが、もしそれが他人のためであれば、それは新宇宙の生命であり、正しい基点に立っていると思います。もし自分のためであれば、それは利己的で、旧宇宙の理を守ることになり、間違った基点に立っているのです。同じく資料を配ることですが、捕えられた同修もいれば、何事もなく穏やかにやっている同修もいます。その区別も基点が違うところにあるのではありませんか? 衆生を救い済度するためであれば、それは法に符合し、正しい心理状態ですが、自分の功績を立てるため、自分を実証するためであれば、それは私の基点に立つことになり、旧勢力の要素もこれを口実に隙に付け入るのです。

 この突発事件に対して、もし我々が皆金剛不動で、純正な正念を発すれば、これこそ師父が要求された「皆さんが純粋で浄らかな心の状態の下でおこなったことこそ、最も良いことであり、最も神聖なことなのである」(『精進要旨』「再認識」)ことだと思っています。

 2007年12月1日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2007/11/27/167267.html
(英語:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2007/11/25/91599.html