日本明慧
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自分に厳しく要求する

(明慧日本)私は1998年から修煉を始めたので、古い弟子と言えます。常人の中での仕事において、私はずっと誰よりも自分に厳しく要求していると思っていました。同僚らが会社の要求に従って、自分に厳しく要求していなくても、順調であるのを見て、心の中では不満に思っていました。自分は他人より多く支払ったのに、得たものは同じであるのを見ると、あまりにも損をしていると思っていたのです。

 大法を修煉してから、自分では自分に厳しく要求していると思っていました。私は常人の会社の中で、厳しい制度の中で、みなある程度不安定なため、大法を修煉してもそれほどの差はないだろう、せいぜい常人の要求よりもう少し厳しいだろう、でも少し融通をきかせるだろう、と常に思っていました。私はまさにこのような心を持って、とても長い間修煉していました。例えば関をあまりうまく通れなかった時に、これも関を乗り越えたことになるだろう、どうしてそんなに上手く通ることができるのか、少し差があっても大丈夫だ、次によく乗り越えればいいと思っていました。私はこれも次元が一つ上がったことになるだろうと思っていました。自分がどの方面で他人より良くできたのかを見ると、彼はこの面で私ほどよくできていない、私はこの面で彼より高く修煉できていると思っていました。また、他人がどの方面で自分ほど厳しく要求していないのかを見ると、彼はまだ私ほど自分を厳しく要求していない、私はこの方面で彼よりもっと良く修煉できているかも知れないと思っていました。どの方面かで他人より少しよくできていると常に満足しており、自分が他人よりずいぶん良くできていると思い、大法の各次元での要求に従って自分を量っていませんでした。とても長い間、私はこのような愚かな、また自己満足の心を抱いて修煉していたのです。

 ある日、私は同修と一緒に数千元の商売をしましたが、最終的に数千元のすべてを失いました。表面的な原因は、私たちが作った製品が相手の要求より1〜2センチ大きかったということでした。作るときに私は要求より大きいと知ってはいましたが、すべての人が私より良くできていないのを見て、私は他人より上手く作っているから、少し大きくても合格できると思っていました。結果は一念の違いで数千元の損をしました。作る過程で、自分に対してもう少し厳しかったら損をしないはずでした。当時、同修は涙ぐんでいました。私は泣きませんでしたが、非常に辛かったのです。お金のためではなく、私が思っていたのは、常人は一つの製品に対してこれほど厳しいのに対して、これほど神聖な大法なのに、私は自分に厳しく要求しておらず、常に僥倖(思いがけない幸運)を期待していたからでした。他人が円満成就するときになって、私たちが失うものは永遠に取り返すことができない、永遠に補うことができないことになります。その時になって後悔しても補いようがなく、それこそ最も人の心を痛めることです。

 今回、表面的には僅か一念の違いで数千元の損をしましたが、もし自分に対してもう少し厳しくしていれば、こんな始末にはならなかったでしょう。このお金は経済条件が良くない農民にとっては小さい数字ではなく、心に触れることです。しかし心に触れなければ、どうして道を悟れるのでしょうか?(当然ながら、大法弟子に資金の足りない情況下でこのようなことが発生したのは、旧勢力の大法弟子に対して経済的な迫害である可能性があるので、正念で取り除くべきです)。私が最も深く感じたのは、大法の修煉は子供の遊びではなく、僥倖を期待する心を持ってはならず、他人より良くできたらそれで満足してはならず、私たちに対する大法の各次元での要求に到達しなければ、誰よりよくできていても、同じく向上できません。必ず自分に厳しく要求すべきである、ということです。

 正しくないところにつきましては同修のご指摘をお願いします。

 2007年12月5日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2007/11/14/166392.html
(英語:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2007/11/24/91581.html