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「内に向けて探す」ことの玄妙さを体験した


 文/中国大陸の大法弟子

(明慧日本)師父の『法輪大法—オーストラリア学習者への説法』を、もう十何回も学びました。そして私は毎回ひざまずいて拝見したのです。オーストラリアの同修が拍手をすると、私も拍手し、まるで師父の説法会場にいるようでした。師父の慈悲深いお諭しを拝聴してから、私の最も大きな変化は内に向けて探すことの殊勝さと玄妙さを会得したということです。

 考えてみれば、私は大法を修煉してから、もう12年になりましたが、師父のたくさんの説法をすらすら暗誦する事ができ、もちろん「内に向けて探す」ことの法理も分かっています。しかし、実際には条件を付けて探すという程度に留まり、トラブルが起こり、指摘されると、往々にして、自分の不足を探すと同時に、自分の長所も探し、また相手の不足も探すようにして、心理的なバランスを取ろうとしていたのです。そのように探した結果は、いつも考えがますます混乱し、うやむやに終わってしまっていたのです。さらに、自分の欠点を指摘した同修にわだかまりが残り、一回また一回の昇華するチャンスを逃し、同修との間に間隔が生じて、全体の圓容に影響し、邪悪を取り除くことと衆生を救い済度することに補うことのできない損失をもたらしてしまったのです。

 一つ例を挙げて説明しましょう。2004年5月、ある同修が私のことに言及した時、「恐れる心が重い、恐れないことはないが、師父に見捨てられることを恐れないのか」と言ったと当市の同修が教えてくれました。それを聞いてから私は機嫌が悪くなりました。しかし、問題に遭ったら、内に向けて探すべきだと師父は要求されていますので、内に向けて探してみようと思いました。そうすると、確かに自分の恐れる心がまだたくさんあることに気付きました。このようにみれば、その同修の意見が正しいのだ、師父は彼の口を借りて早く恐れる心を取り除くように悟らせてくださったのかもしれないと思いました。しかし、その後、私はこれらの心を取り除くようにするのではなく、「自己を守る」という変異した観念が邪悪な要素に利用されて、自分に色々と口実を付けるようにしてしまいました。例えば、本当の事情はその同修には分からない、実は昔と比べて、今は恐れる心がずっと少なくなってきたのだとか、私の不足ばかりを見ている、実は私は法を実証することもたくさん行っているのだ、それを分かっていないだろうとか、私たちはすでに何年も会っていないのに、なぜ私の恐れる心が重いと分かるのだろうかとか、陰で人の噂をするなんて修煉者の心性基準に符合するのだろうかとか、あなたもそそっかしくて、危険なことに遭いそうになったことが何回もあるのではないか、そんなに十分な正念を持っているとは言えないのではないか、などという考えが頭に浮かんできたのです。しばらくしてから、この考えは正しくない、それは思想業や変異した観念、旧勢力の要素に妨害されたのではないかと気付くようになり、また引き続き自分の不足を探すようにしました。ところが、探しているうちに、またいつの間にか主意識が「麻痺」し、「降参」してしまうのです。

 師父の『法輪大法—オーストラリア学習者への説法』を学んでから、私ははっと目覚めるようになり、それから徹底的に自分を変えて、何かトラブルに遭ったら、ただ自分の不足を探し、根こそぎ取るようにという一念を定め、それ以外の妄想や思想業や変異した観念、旧勢力の要素が頭に浮かんできたら、直ちにそれを解体し、一掃しようと心の中で誓いました。

 そうすると、翌日になって、ある同修が私のことを「普段はまあまあいいが、肝心な時になると、正念が足りなくなる」という協調責任者からの言いづてがあると教えてくれました。3日目に、もう1人の同修が来て、他の同修から私のことを「嫉妬心が強い、気が小さい」という評価があると教えてくれました。私はすべて慈悲で和やかな心理状態で聞いたのです。それらの事を聞いてからの第一念は「いいことがやってきた。ありがとう」ということでした。それから、正念を持って、大法に照らし、自分の執着を全面的に探そうとしました。その結果、今ではもう自然になり、自分でさえも気づかなかった多くの執着心を探し出し、そしてそれらを否定し、取り除くようにしました。

 このようにして、私はますます頭がはっきりするようになり、ますます心が純粋で清らかになってきたと感じました。法を学ぶ時も集中するようになり、大法に対する理解もどんどん昇華してきました。頭に浮かんできた一念ごとに対し、それが正念であるかどうかがすぐ分かり、よくない考えに対しては、直ちに取り除くようにしています。そうすると、毎日出会ういかなることでも皆よいことで、悪いことでも「よいこと」であり、よいことも「よいこと」であり、それはすべて自分の心性の昇華の絶好のチャンスであると切に感じました。そして、自分の一つの考えも一つの閃きも皆、大法を実証し、邪悪を解体し、世の人々を救い済度しており、自宅であろうが、町であろうが、職場であろうが、どこにいてもすべてが慈悲で和やかなエネルギー場に包まれ、身体が軽く、心が清らかであるように感じました。まだ浅いのですが、本当の「内に向けて探す」ことはなんと玄妙なことであろうと身をもって体験しました。ちょっとした会得ですが、同修の皆さんと分かち合いたいと思います。

 2007年12月6日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2007/12/1/167485.html