日本明慧
■印刷版   

慈悲に対する私の認識


文/中国成都大法弟子

(明慧日本)いつも明慧ネットで慈悲に関する同修の文章を読んでいますが、今日は私も慈悲に対する自分の認識を同修の皆さんと交流したいと思います。

 私は1998年に法を得たのですが、いつも同修とトラブルを起こした時、寛容で慈悲の心で同修に対処できないことに悩んでいたのです。常人とトラブルを起こした時には、いつでも寛容に対処しできるのですが、同修の時になると、慈悲心が無くなり、更に怒ったこともあります。

 法理上、自分のやり方が正しくないと分かっており、よくない要素を抑え、師父の要求された通りにやっていきたいと、ずっと思っているのです。しかし、トラブルが起きると、やはり堪え切れなくなるのです。そして、師父の按排してくださった、向上するチャンスを逃してしまい、師父の弟子(未来の覚者)として、不善な態度で対処してしまった事を思うと、いつも、後になって後悔してしまいます。このような状態に陥った私は、とても辛く疲れを感じますが、なかなか問題の根元を探し当てられず、このような状態が1年近く続きました。

 今年の10月8日、私は突然重い風邪の症状が現れ、体中の関節、細胞、肌全体が酷く痛く、それに熱も出て、頬は熱で真っ赤で下痢もしました。その時私は、これは邪悪からの迫害で、きっと旧勢力に心性の隙に乗じられたのだと思いました。そこで、私は直ちに正念を発し、内に向かって探してみました。すると最近は気が緩み、三つの事を行うとき、仕事を完成させるような気持ちで師父の要求された「衆生を救い済度する」ということを、この上ない神聖な使命と見なしてはいなかった、と悟りました。すると、症状は一段とよくなりましたが、やはり根元までは、まだ掘り出していないような気がしていました。

 次の日、法を学ぶ時、偉大で慈悲なる師父は分からせるように悟らせてくださいました。『転法輪』の第二講『求めるということの問題』の中での『その人は名利心を全然捨てていないので、慈悲心が現われるはずがありません』というところを読んだ時、私は瞬時に悟る事ができました。

 私が、同修に対して慈悲なる心を持っていないのは、同修に対する名利心を放下していない、からではないでしょうか? 同修とトラブルを起こした時、内に向けて探すのではなく、いつも相手を責めていたのです。自分ができることは、相手もできることだと思い込んで、相手が自分の要求通りにやると、嬉しくなり、そうでない時は、相手に文句を言ったり、更に怒ったりするのです。同修の手伝いをする時も名誉を求める心を持っており、相手から感謝してほしいという心を持ってしまうのです。

 ある時、「これらの同修は私のことを理解してくれない」と、ある同修に愚痴をこぼしたことがありますが、慈悲なる師父はその同修の口を借りて、『私はあなたのことを理解していますよ』 と言って、分かるように悟らせてくださいました。しかし、私はまだ愚かなもので、「あなたが理解してくれても何の意味もありません。他の人がまだ理解してくれていないから」と返事をしたのです。この名誉を求める心はなんと重いことでしょう! 1人の同修が理解してくれても、まだ足りないと思い、更には多くの同修にも理解してもらおうとしているのです。手柄を立てようとする心は、実は、共産党の毒素なのです。もっと内に向かって探してみると、まだ利益に対する執着心と、他人を変えようとするが、自分を変えようとはしない心、嫉妬心、自己顕示欲、同修を見下す心を見つけました。なんと危険なことでしょう! こんなに多くの良くない心を取り除いていないから、辛くて、疲れるように感じるのは当たり前なのです。師父が、『この世にいることは、苦を嘗めることだ』と教えてくださったのに、私は片方の手で常人の執着心を掴んで放そうとせず、もう片方の手では神を掴んで放そうとしないのです。異なる次元での法の要求に達していませんでした。幸いにも、偉大で慈悲なる師父が、分からせるように悟らせてくださったおかげで、私は師父の按排してくださった正しい道に戻ることができました。

 ここまで書いて、ふと何年か前に見た夢を思い出しました。夢の中で、たくさんの人々が山を登って行きましたが、上へ登るほど人が少なくなったのです。道程の四分の三のところまで登ると、一本のわき道が現れました。今までの道が険しいのに対して、わき道のほうが平らのように見えるので、私はわき道に入ることにしました。その道の途中に一本の渓流が横たわっていて、その渓谷を通った時、靴がぬれてしまいました。その時、同行した仲間が「そのわき道は頂上まで登れないから、やめなさい」と言ってくれました。それを聞いた私は濡れてしまった靴を見て、もう一度、もとの道に戻って、引き続き登ったのでした。

 このように、実は師父は以前に見た夢を通じて修煉は安逸を貪ってはいけない、平らな道を歩くということではなく、修煉は他でもなく、苦を嘗めること。苦を嘗めることにより、業を滅することができ、そうするとによって、業を早く返済し、師父にしたがって、『返本帰真』することができるとヒントを与えてくださったのです。

 師父は私たちの修煉において随分気を遣ってくださり、私たちに、まだたくさんの不足があるのを見て、焦っておられるのです。私は師父に対する敬意を本当に言い表す言葉がありません。

 その時、師父の説法『2003年旧正月15日米国西部法会での説法』の中の『転んだら倒れたままにせず、早く起きない』という言葉を私は頭に打ち込んできました。「そうですね。よく行っていないなら、早くよく行えるようにやっていきましょう! 」

 私と同じような問題を抱えている同修も、よい行いをして、師父に従って早く『返本帰真』できるようにしてほしいと思います。

 2007年12月7日


(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2007/12/4/167698.html