日本明慧
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邪悪を徹底的に否定することについての会得

(明慧日本)同修たちの、この執着心、あの執着心があるため、旧勢力に妨害されたという交流文章をよく見かけますが、それは問題の根元ではないと私は思っています。修煉者には執着心がないと言う事があり得るのでしょうか? 徹底的に旧勢力の妨害を終わらせることに関して、同修の書いた交流文章を読んでから、私はこのように認識しています。師父は『旧勢力そのもの自体の存在を認めない』という法を説いてくださいましたが、他の生命には、私たち大法弟子の修煉を按配する資格はありません。私たちは大法の中で修煉しており、旧勢力といささかの関係もありません。私たちの不足は、大法の中で、正しく行っているか、どうかなのです。

 またそれは、私たちが「師父と法」を堅く信じる事ができているか、どうかという事でもあるのです。師父が大法を通して私たちを清浄心にして下さっている事を信じ、この一念を定めさえすれば、(勿論この一念は清らかで専一的なものでなければならない)大法弟子は歴史上において、恩讐があるとしても、師父がきれいにして下さると思います。私たちが、大法に溶け込んでいれば邪悪は、我々を妨害することが出来ないと私は思っています。ある同修が言ったように「衆生を救い済度する」ことだけが真実であり、私たちが、師父の教えに従って、法を正し衆生済度することを妨害しているものは、すべて虚像なのです。

 ある時、私たち何人かの同修は、労働教養所に近い距離で正念を発することを約束しました。出発する前の日、どんより曇っていましたが、同修たちは強大な正念を持ち、行きたくない同修は誰一人いませんでした。次の日、出発して途中まで行くと、突然稲妻が走ったり、雷が鳴ったりして、急に天気が悪くなりました。しかし、それは邪悪からの妨害だと同修全員が見抜き、心が動じた人は誰もいませんでした。

 私たちは、心の中で師父に加持を求め正念を発しました。すると、雨が降ったり止んだりしたのです。私たちが正念を発した時、また雨が激しくなってきました。他の同修は、別の場所で字を書きに行っているので、じゃまをしてはいけないと思って、雨が止むことを師父にお願いしながら正念を発していました。最初は止む気配が全く無かったのですが、心が動かされないよう、正念を発すると、暫くすると雨は止んだのです。

 慈悲深い師父は意気地のない私たちを見捨てることもなく、法を正す修煉において正真正銘な大法弟子となるように、励まし導いてくださっているのです。私たちは、時間を大切にして、勇猛邁進し師父の要求された「三つのこと」をしっかりと行い、更に多くの衆生を救い済度して行こうと思っています。

 以上、個人の浅い認識ですが、不適当なところがありましたら、慈悲なるご指摘をお願いします。

 2007年12月10日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2007/12/3/167648.html