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基点を正しく置き、私心から抜け出す


 文/大陸大法弟子

(明慧日本)大法弟子が、師の法を正すことを手伝い始めてから、既に風雨の中で8年余りが過ぎました。師父の慈悲深いご加護のおかげで、当初のどうすればよいか分からない状態から、今日のようなますます成熟した状態にまで歩んできました。その間、師父は私たちのために随分気を使ってくださいました。今になっても、私は自分の悟性の悪さ、人心の多さを思い出すたびに、恥ずかしく思っています。絶えず法を学び、同修の交流文章を読むことにより、大法弟子が師を手伝い、法を正し、三つのことを行う過程の中で、その事を行う基点が非常に重要だと認識するようになりました。基点が正しければ、邪悪が付け入ろうとする隙が無くなるのです。これも大法弟子が8年余り師を手伝い、法を正すことの中で、血の教訓をもって悟った法理なのです。

 師を手伝い、法を正すことの中で同じことをやったのに、なぜその結果が全然違うのでしょうか。これも我々がずっと考えている問題です。

 例えば、当時、天安門広場へ法を実証しに行く時、その日に行って帰る同修もいれば、捕まえられて迫害される同修もいます。同じく真相資料を配ることですが、全然迫害されることなく、ずっと堂々とやっている同修もいれば、捕まえられ、迫害される同修もいます。

 同じく病業の表現ですが、すぐそれを乗り越える同修もいれば、長引いても乗り越えられず、更に病魔に命を奪われる同修もいます。邪悪に捕まえられた後、絶食を通して、魔窟から抜け出す同修もいれば、それができず、迫害により死亡してしまう同修もいます。同じく資料を作っていますが、ずっと穏やかにやっている資料点もあれば、邪悪に迫害され、同修が捕まえられることもあります。

 同じく協調担当者ですが、よく協調して、地元を一つの全体としてまとめているケースもあれば、協調担当者がトラブルに付きまとわれて、逮捕され迫害されているところもあります。多くの同修がこのような情況を目撃し、自らも体験していますが、なぜ結果がこんなにも違うのでしょうか。それは他でもなく、異なる基点によりもたらされた異なる結果なのです。

 実は大法弟子は三つのことを行う時に、基点が正しければ、既に完全に自分を守る能力を持っているのです。つまり、大法弟子はすでに神なのです。師父は7.20以前に既に大法弟子をあるべき位置に押し上げたとおっしゃいました。あるべき位置に押し上げたと言うのはどういう意味なのでしょうか。それは佛法神通を備えた偉大な神という意味ではありませんか? しかし、大法弟子は人心が重く、悟性が悪いため、ずっと人心で師父の説法を理解し、人から抜け出すことなく、神になれないでいるのです。実は人と神は一念の差によるものです。「常人の心を放下して 法を得れば 即ち是れ神 三界の外へ跳び出して 天に登って佛身に乗る」(『洪吟』「 廣度衆生」)。大法弟子は人心を放下すれば、神になるのです。しかし、今になっても、たくさんの大法弟子がやはり人心を抱いて放そうとせず、神になろうとしません。

 それでは、大法弟子は師を手伝い、法を正し、三つのことをやる中で、如何にして基点を正しく置くのでしょうか。私の理解としては、それは旧宇宙の「私のため」と言う本性を徹底的に取り除き、新宇宙の「他人のため」と言う本性に同化すること、つまり、無私無我で、他人を先に、自分を後にするという境地に達することだと思っています。

 例えば、法を学び、煉功する基点は別に自分の圓満成就や次元の向上ではなく、それは法を学び、煉功することを通して、人心を取り除き、宇宙の特性に同化し、本体を浄化し、神通を強め、それにより、邪悪を取り除き、衆生を救い済度する能力を高めるところにあるべきです。そして、真相を伝え、真相資料を配る基点は衆生に真相を分からせることから救い済度される事ができるところにあり、別に自分に能力があると実証し、威徳を増やすのではありません。

 正念を発することは別に自分を守り、自分が迫害されないようにするためではなく、それは邪悪を取り除き、法を実証し、衆生を救い済度する環境を切り開くためです。病業の表れがある時、正念で対処し、自我や病業への執着を放下し、大法弟子として行うべきことをやっていけば、すぐにその関を乗り越えられるのです。もし病業を取り除くために三つのことを行うのであれば、逆効果になるかもしれません。

 同修の欠点を見かけたとき、責めたり、愚痴をこぼしたり、見下げたりするのではなくて、本当に相手のためにと言う慈悲なる心を持って指摘すると、トラブルが起こらないし、相手も受け入れやすいのです。協調担当者の間で意見の食い違いがある時、自分の意見を固持するのではなく、自ら進んで相手を圓容する(相手にれっきとした間違いがあれば別)ようにすれば、同修の間で間隔が生ずることはなく、確固たる全体を形成する事ができるのです。

 法を実証する如何なることを行うときでも、我々は皆自我を放下し、自己を実証する要素を持たず、完全に法を実証し、衆生を救い済度すると言う基点に立てば、邪悪も付け入る隙がないのです。邪悪に隙に付け入られたのは往々にして我々が自己を実証したからです。たくさんのことをよく行った同修が最後に迫害されたのは褒め言葉をよく耳にしたことから、自己を実証する心が出てしまい、それにより基点を正しく置く事ができなくなったからです。その教訓も実に深刻なのです。

 同修の皆さん、法を正すことがもう最後の最後に入り、我々も自分がこの世に下りてくることの使命、背負った責任もはっきりと分かっているのです。私たち皆で旧宇宙の「私のために」と言う本性を取り除き、新宇宙の他人のためにと言う本性に同化しましょう。

 私たちは自我を放下し、自己を実証する心を放下し、如何なることでも皆法を実証し、衆生を救い済度すると言う基点に立てば、最後の道を正しく歩めるのです。それも本当に「神世に在りて 法を証実す」(『洪吟 二』「怕口舎(しゃをおそれる)」)を成し遂げる事ができ、大法弟子は確固たる全体を形成し、救い済度することに値するすべての衆生を救い済度する事ができるのです。

 2007年12月10日

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2007/11/17/166625.html