日本明慧
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自己を修めるように、師父が諭してくださった


 文/法子

(明慧日本)10月の初旬、第四回中国大陸大法弟子修煉体験書面交流会の原稿募集が始まりました。そこで、私は自分の修煉体験を書くことにしました。文章の中で自分が如何に家庭でのトラブルを解決したのかを書いた段落があります。妻のよくないところを書いてとき、コンピューターの画面がチラッと閃いてから、文章がなくなったのです。すると、私はもう一回その文章を開いてチェックしてみたら、妻の状態を書いたその段落がなくなったのです。仕方なく、再入力することにしました。私は入力を学んだばかりなので、百字程度を打つのに30分もかかるのです。私は気を入れ直して再度入力することにしました。そうしたら、今度ちょっと入力しただけで、画面はまたしてもチラッと閃いてから、文章がまたなくなったのです。私は悔しくてたまらなく、もう遅いので、電源を落として休むことにしました。翌日になって、電源を入れ直して見ましたが、その部分が見当たりません。私は引き続き書くことにしましたが、ただ一行を入力したところで、今度はマウスが使えなくなりました。そして、再起動しようとしてもできなくて、最後は入力したばかりのその一行を消してから、やっと再起動できるようになったのです。

 それはきっと偶然なことではない、どこが間違っただろうと思ったら、急に私は悟ったのですが、それはそのように書かせないようにと師父が手引きして諭しておられるのです。師父は《ロサンゼルス市での説法》の中で「自分自身を修めてください。私は大法弟子の環境を互いに批判しあう環境にしたくはありません。私はこの環境を、批評を受け入れると同時に、内に向けて探すことのできる環境にしたいのです。皆、自らを修め、すべての人が内に向けて探し、誰もがしっかりと自らを修めることができれば、衝突は少なくなるのではありませんか」とはっきりと教示してくださいました。大法の要求を自分に照らして、内に向けて探しました。表面上、私は自分の体験を書いているように見えました、実は妻を責めていたのです。修煉は自己を修めることで、他人の不足で自分の欠点を隠してはいけません。大法弟子の環境というのはお互いに責め合う環境ではありません。執着と人心を取り除いて始めて向上できるのです。文章を書くことも修煉であり、それも善意を持って、客観的に現し、内に向けて探すようにしなければなりません。これが分かってから、妻を責める内容を削除してから、コンピューターも正常に戻りました。師父はいつでも私のそばにおられ、私を見守っておられると感じました。私が文章を書くと同時に、師父もチェックしておられ、大法弟子の修煉状態に符合しない内容を書き入れないようにしておられるのです。

 これにより、私はこんなことも連想しました。《明慧ネット》《正見ネット》に載っている同修たちの文章は、同修たちの修煉の総括であり、大法弟子たちの心血が凝集しているのです。私は《明慧ネット》《正見ネット》に載っている文章を疑わしく思うこともありますが、今度の経験からこの心を放下するようになりました。大法弟子の書いた文章は別に欠点が無いと言うわけではありません。文章に法に則っていない言い方ややり方があるのを見かけると、明慧編集部にできるだけ早くそれを言い出し、共に論議するようにすべきだと思います。なぜなら、私たちは皆修煉者で、皆が向上しなくてはならないからです。それは「党文化」の中での偽りや大げさにまくし立てることや胡麻擂りとは全然別物なのです。大法弟子の環境は純真なもので、世の中での浄土なのです。

 個人の会得ですが、ご叱正をお願いします。

 2007年12月10日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2007/11/30/167423.html