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同修の文章《自我を放下し、全体を圓容する》に対しての補足

(明慧日本)明慧ネット2007年11月24日に載った同修の文章「自我を放下し、全体を圓容する」の中で言及した問題について、私もまったく同感です。ここで他の角度から自分の認識を述べてみたいと思います。

 一人の常人が参与したくないこと、あるいは参与できないことに出会った場合には、自分の心理的なバランスを取るために、その事柄のよくないところや不足な点を指摘しがちですが、それは一種の私(し)の表現なのです。しかし、大法弟子の一念によって、同修に対する態度や見方、また考え方によっては、確実にその事柄に大きく作用してしまう事があるのです。つまり、一つは大法弟子の一念がエネルギーを持っているという事、もう一つは我々の不正な一念(観念、考え方)は邪悪に存在の場を与え、隙に付け入れられてしまい悪事を働き、破壊する作用を果たしてしまう可能性があるという事です。

 大法弟子の環境、条件、特長など、それぞれが違うため、それに見合った方法で、衆生を済度することへの、プロジェクトに従事しているのです。たとえ同じプロジェクトであっても、担当の区別や仕事の分配があるのです。つまり、一人の修煉者がすべてのことに従事するわけではなく、また、すべての修煉者が同じことに従事するわけでもありません。

 ですから、他の同修の提案やプロジェクトに対して、たとえ参与できなくても、よくない考えをもって対処してはいけないのです。「全体」の力を弱めてはいけません。これは、私たちに対して最低限度の要求なのです。私たちは『法』の要求に従って、自分のやるべきことを行うと同時に、「全体」の力を弱めないために、常に「全体」という言葉の存在があるのです。更に、私たちがベストを尽くして、お互いに補い合い、圓容し合うようになれば、最終的に『神』という状態に符合し、「全体」を形成する事ができるのです。

 修煉する時に、「全体」に関わるトラブルが起きた場合は、自分の中でまだ取り除かれていない「嫉妬心」、「利己心」、「自己を実証する」、「仕事をする心」と関係があるのです。「全体」を圓容しようとするならば、自我を放下する寛容さが必要なのです。この圓容と寛容もお互いに関係しており、他人に何かの問題が起きた時、自分の容量を広げるようにすれば、問題も簡単に解決できるかもしれません。

 同じように、同修が出会った問題や、病業の妨害、また不法に拘禁され迫害されたりすることに対して、周りにいる同修が、その同修に対しもっと一念を重視して行く必要があると思います。

 以上個人の会得ですが、不適当なところがありましたらご指摘をお願いします。

 2007年12月11日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2007/12/3/167634.html