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神韻芸術祭の入場券の販売促進についての会得


 文/トロント大法弟子

(明慧日本)神韻芸術祭は師父が自らたくさんの王と主を救い済度される過程です。そして、今日法を正す時期の大法弟子がこの世で師を手伝い、法を正し、更に広範囲に衆生を救い済度できるように、師父は十何年の時間を与えてくださり、修煉させ、成熟させ、人から神に変えられました。それに、私たちが付いていけるように、この十何年間、慈悲深い師父はずっと絶えず教示し、励まし、守ってくださっています。

 この十何年歩んできた道程を振り返ってみて、一人の本当の修煉者のすべての修煉過程は絶えず自分の純粋でないところを見つけ、絶えず大法に照らして、自分を修正する過程であるとつくづく感じています。自分の成績と支払った代価は師父が与えてくださったすべてと比べて、本当に取るに足らないものなのです。師父の見護りが無ければ、命さえも保証できない我々にとっては、うぬぼれて自分に何か功績があると思っていいのでしょうか?

 しかし、今の問題は、できるだけ多くの衆生を救い済度しなければならないことを師父によって要求されていますが、我々の不純さが未だに頑なに妨害の作用を果たしているのです。その表現としては、入場券がなかなか売れないとか、やっとのことで何枚か売るとか、売りに行く人がいないとかいうことなのです。実はそれらの現象は我々の各種の執着と関係しているのです。例えば、他の同修に対して不満をもっており、協力しようとしないこと、自己に執着し、自分がやったことを師父のご要望よりも重く見ており、自分のかつての「功績」に甘んじてうぬぼれ、自分がたくさんやったから、今よく行わなかった同修がよくやって追い付いてくるのを待つだけでいいと思い、師父のお力で全ての困難が解決されるのを待ち、世の人々を見下げる気持ちがあり、本当の慈悲なる心を持ってやっていないのです。直接に師父の指示されたとおりにやっている同修を羨ましがったり、妬んだり、不満に思ったりして、自分が取り残されるのを恐れ、世の中の名誉、利益、情けを放下するどころか、自分自身の用事を全部処理し終わった後で、初めて法を正すことに参与することなど……

 これらの不純なものがあまりにも多いからこそ、頭の回転が速いのに、行動が遅い、いろいろ考えたりしゃべったりしているのに、法を正す時期の大法弟子としてやるべきことをなかなか確実にやれないという現象が私たちにあるのです。我々は本来高い次元の生命で、この世で汚染された物質が本当の自分ではないのに、これらの不純な考えを本当の自分、同修の本性からの考えと思い、法を正すことが今日に至り、どうしようもない必然的なものだと思い、この全ての解決を師父に頼ろうと思っているのです。

 勿論、師父はこの全てを解決する能力を持っておられます。しかし、本当に師父がやってくださるならば、私たちはどうなるのでしょうか? 我々の如何なる考えもそれなりの源があり、皆我々の宇宙の衆生と関係しているのです。それらの変異したよくない考えを変えなければ、我々の世界にいる数え切れない生命もそれにより壊滅されることになるのです。と言うのは、それらの存在は既に師父が衆生を救い済度することの展開を阻んでいるからです。もし我々が自分の本来いるべきところに戻ったとき、私たちがよく行っていないため、自分がありとあらゆる辛苦を嘗め尽くして救おうとする我々の世界の衆生が死んでしまうのを見ると、師父によってあれだけ高い栄光と輝きを授けていただいた神仏としての私たちは、この全てに直面してどういう気持ちになるのでしょうか?

 法を正すことは必ず成功するのです。私達がいなくても、師父も同じように宇宙全体を法で正されるのです。入場券の販売促進に行く人がいなくても、衆神が協力して、この全てを成し遂げるのです。それは間違いの無いことです。しかし、なぜ私たちが自らやれないのでしょうか? 師父は私たちに成就させて、最もいいものを与えようとしておられるのですが、なぜ私たちはそんなに意気地がないのでしょうか? なぜ私たちは師父を喜ばせ、安心させることができないのでしょうか?

 入場券がなかなか売れないのは、根本的に言うと、法を正す時期の大法弟子の心がまだ動いていないからです。これは間違いないことです。今世の中の全ては皆我々のために、衆生が救い済度されるために存在しているのです。私たちは皆他人を見るのではなく、内に向けて自分を見るべきです。私たちが衆生を救い済度する心を動かせば、必ず限りない力と知恵、金剛の如き意志が出てくるに違いありません。そして、どうすべきなのかということも別に他の人に教えられるのではなく、自ら進んでよい提案を出し、自分のベストを尽くすと同時に、同修からの意見も落ち着いて耳を傾け、全体を圓容するのです。

 それでは、いつになったら、我々はこんな状態になれるのでしょうか? それは一日、何時間、或いは何分間後かもしれません。もし一つの地域の大部分の修煉者がこのように精進する状態になれば、奇跡も自然に現れると思います。なんと言っても、我々は長年修煉してきた修煉者なのですから、私たち皆で積極的な正念で自分と同修に対処し、法の威力でそれらの人心や私念を取り除きましょう。皆で法に照らして、自らよく行うよう自分に要求し、正しい念と正しい行いを持っていれば、一日に1500枚どころか、15000枚も簡単に売れると思います。

 法理上師父は既にはっきりと教えてくださいましたが、大事なのは我々が法の要求に従って動くかどうかの問題です。そして、それは体を動かすだけではなく、修煉する心、衆生を救い済度する慈悲なる心が動いたかどうかのことなのです。実は我々も昔全体で協力して僅か3週間でゼロからスタートして、2回の出演の成功を企画したこともあるのです。しかし、大法の我々全体に対する要求もますます高くなっています。昔は一部の協調責任者が手配して、他の同修はただ協力すればよかったのですが、今はみんなが協調責任者としての責任を持ち、自ら進んで協力しなければ、うまくいかないと感じています。そして、今までまだ接触していない分野、例えば、商業界、政界、マスコミ機関、主導的知識人、華人コミュニティなどと協力し合いながら、段取りよく推し進めていかなければなりません。

 全体として法の要求に達していないなら、一部の協調責任者だけがいくら頑張っても効き目がありません。それに対して、全体として法の要求に達していれば、瞬く間に成し遂げられるのです。ですから、入場券の販売促進がうまくいかない場合、我々はやはり内に向けて探さなければなりません。もし我々の誰もが自分の次元でよくない考えを正して、法理上で昇華すれば、全体としては必ず前に進めるに違いありません。

 最近、私たちの地区では元々自分のプロジェクトに没頭している同修もどんどん町で一軒一軒の店を訪ねて芸術祭の紹介をするために出てくるようになりました。そうすると、皆で交流する時に、雰囲気も良く、修煉での向上も感じることができるようになりました。例えば、自分がどんな人に出会い、心がどのように動いたとか、どのように人心を取り除き、慈悲の力を感じられたとか言って、お互いの向上を促進し合い、励まし合っています。もしこのように続けてすべての分野で全部うまくやっていけば、入場券の売れ行きが悪いということはないと思います。

 神韻芸術祭は目下我々の一大事です。各地の同修は皆それに参与し、その過程で修煉しています。ですから、皆はその過程での自分の体験を書き出してほしいのです。そして、このような交流を通して、全体として迅速に向上し、昇華することができます。これも入場券の販売促進の実際の意義の一つであると私は思っています。個人の会得ですが、正しくないところがありましたら、同修たちの慈悲なるご叱正をお願いいたします。

 2007年12月11日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2007/12/6/167830.html