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煉功者は高い基準で己を律しなければならない

(明慧日本)最近『転法輪』を読む時、よく煉功者は高い基準で己を律しなければならないと言う言葉を見かけます。どの講を読んでも見かけるのです。

 修煉は厳粛で、超常的です。大法がこの世に伝わり、法を正す時期の大法弟子は法を得て、衆生を救い済度するとても特別な時期です。一人一人の大法弟子がよく修めているかどうか、精進しているかどうか、それは皆高い基準で己を律するかどうかによって違うのです。修煉は他ならぬ人心や執着を取り除き、神に向かって歩む過程なので、私たちは、真に高い基準で己を律し、異なる次元で、夫々が大法の法理に従って、自分の言行や思惟を律することが出来るならば、それは修煉者の基準に達していると思います。逆に人心に動かされてしまえば、それはよく行わなかったことであり、向上していないことになるのです。そして、どんなことを行う時でも、高い基準で己を律しているかどうか? 異なる次元で、大法の法理に基づいて、自分に要求しているかどうかという問題に直面しているのです。

 例えば、朝、煉功するには、3時40分に起きなければならないのですが、それは一番寝心地のいい時なので、大部分の同修は目覚めるために、目覚まし時計をかけていますが、私も同じです。しかし、時には疲れすぎて、翌日起きたくないと思うと、この正しくない一念のせいで寝すぎてしまい、煉功者として高い基準で己を律することができなくなります。

 法を学ぶときに、気が散ったり、仕事を完成させようとごまかしたりすることがありますが、このようにして法を学べば、高められるのでしょうか。これも高い基準で己を律していないことになり、向上のチャンスも、大法に溶け込む時間をも無駄にしてしまうのです。しかし、本当に一心不乱に法を学べば、法の内包が自然に現れてくるのです。法を学ぶ時、磁石に吸い込まれるように、次から次へと読みたくなり、たくさんの法理が頭に浮かんでくると言う同修がいますが、これは正しく大法の威力なのです。ですから、私達も法を学ぶ時には、高い基準で己を律しなければならないのではないでしょうか?

 正念を発する時も、まだ定刻になっていないのを見て、自分が片付けていることを優先したり、夜、定刻の12時になると、眠さに負けて発しなかったり、また正念を発しながらも、もう5分過ぎたかとしきりに時計を見たりすることがあります。師父の説法から私たちは既に分かっているのですが、大法弟子の正念が強ければ、5分間だけで、三界内の邪悪を全部根絶することができるのです。ところが、私たちはよく行っておらず、正念を発する時に、高い基準で己を律していません。

 真相を伝える時も高い基準で己を律することができるかどうかという問題があるのです。異なる人間、異なる環境、それに自分自身も執着や人心があります。このような複雑な条件の下で、真相を伝え、衆生を救い済度することは実に難しいのです。しかし、私たちが高い基準で己を律し、慈悲なる心を持ちさえすれば、妨害を排除し、絶えず知恵が湧き、正念を持って行動することができるのです。これは大法の威力の現れであり、更に修煉者の正念の作用なのです。ですから、私たちは高い基準で己を律しなければなりません。

 たくさん書きましたが、それは自分を戒めると同時に、この方面でまだ精進していない同修とも、互いに励まし合いたいからです。「法を正す時期の大法弟子」それは師父が与えてくださった栄光ですが、私たちは更に己を厳しく律し、正念を持って行動し、衆生を救い済度しようではありませんか!

 個人の会得ですが、不適当なところがありましたら、慈悲なるご指摘をお願い致します。

 2007年12月11日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2007/11/30/167423.html