日本明慧
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私は自分を神と見なしているのか


 文/蓮子

(明慧日本)あるとき、同修が自分の見た光景を教えてくれが、そこで私は、色々考えさせられました。その同修が、家で『転法輪』を読んでいた時、空から、急に古代の衣装を着た2人の人が舞い降りてくるのが見えました。呆気に取られた彼が法を読むことをやめると、耳元で「続けて読みなさい。彼らは法を聞きに来たのでよ」と言う声が響きました。そこで、その同修はまた読み続けましたが、しばらくして、頭を上げてみると、その2人はもういなくなっていたのです。

 またある時、我々20何人かの修煉者が集まって、どうやって同修を救い出すか、更に多くの世の人々を、どうやって救うかについて交流していました。そのとき、その同修は外から3人の背の高い、鎧を付けた王宮の衛兵のような人が入ってくるのを見ました。私はその人たちが金剛神で、護法に来たのかもしれないと言いました。その同修は「大法弟子は本当にたいしたものです。我々も皆神なのですね」と言いました。私は思わず心の中で「あなたは本当に自分のことを神と見ているのか?」と自分に問い掛けました。

 慈悲深い師父は説法の中で多くの法理を教示してくださり、たくさんの偉大な称号を授けてくださいました。「大法弟子よ、皆さんは濁世に輝く金の光であり、世の人々の希望であり、師を手伝う大法徒であり、未来の法王なのです。精進しましょう、世の中の覚者たち、現在のすべては、未来の輝きとなります!」(『祝辞』)そして、私たちのことを「最も偉大な生命です」(『2004年ニューヨーク国際法会での説法』)、「神の道を歩んでいる生命なのです」(『ロサンゼルス市での説法』)「神世に在りて 法を証実す」(『洪吟 二』<怕口舎(しゃをおそれる)>)とおっしゃっておられます。しかし私は、内心どのくらい自分のことを神と見なしているのだろうか? と考えてみると、これもたぶん十何年来私がよく躓いて、絶えず間違いを犯し、ずっと精進できないことの主な一つの原因なのでしょう。

 なぜいつも魔難に出会い、関を乗り越える時に、神の念が生じないのでしょうか? なぜ事ある毎に人の思惟方法で認識し、対処してしまうのでしょうか? なぜ一回、また一回と邪悪に隙に乗じられ、旧勢力の按排した道を歩んでしまうのでしょうか? それは法をしっかり学んでいないために、師と法を固く信じることができないからでしょう。だから、このように人の観念が多く、正念が足りず、神の念が生じないのでしょう。実は師父はとっくの昔に『警告の言葉』『再認識』『道法』などの経文の中で既に教えてくださいました。しかし、私はなかなか悟ることができず、いつも自分のことを人と見なし、神と見なしていないのです。

 ある時、私は同修と田舎へ真相を伝えに行って、郷の役所に強制連行されました。私は全然恐れず、絶えず正念を発しながら、郷の書記と派出所の所長に真相を伝えました。また正念を発して邪悪の迫害を解体するように他の同修に注意しました。そのとき突然頭に「行かなければ」という一念が浮かび、直ぐに部屋を出ました。ドアの両側に立っている警察は何の反応もないし、中にいる十何人の郷の幹部も何の反応もなかったのです。私は堂々と部屋を出ました。彼らが我に返って追おうとした時、私はもうすでに100メートルくらい離れていて夜の闇の中に消えたのです。後でその村の人々は「(私が)さっきまで部屋の中で話していたのに、急にいなくなった」と取り沙汰しているそうです。私も後で考えたのですが、その時の「行かなければ」という一念は正に神の念ではないでしょうか。その時の表現は神としてあるべき状態ではありませんか?

 実は、大法弟子が世間で法を実証するにあたっては、師父から既に仏法神通を与えていただき、それによりたくさんの神の行いを表すことができるのです。ただ、我々はいつもそれを神の行いと意識できず、世間の普通の表現のように見なしてしまっているのです。また時には人の思惟方法、認識、観念に妨害され、神通を使えなくなることがあります。もし私たちは皆自分が「世の中の覚者」であり、我々の行ったすべては皆「神世に在りて 法を証実す」ことであるとはっきりと認識し、人の観念、思惟、認識を取り除くようにすれば、我々の本性の一面(神の一面)もそれにより現れるのではありませんか? もし私たちがいつも「自分のことを神と見なしているのか?」と自分に問い質してみれば、更によく、更に神聖、更に殊勝、更に偉大に行えるかもしれません。

 個人の会得ですが、慈悲なるご指摘をお願いします。

 2007年12月13日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2007/12/10/168096.html