間隔を打ち破り、全体に圓容することに関しての会得
文/中国大陸大法弟子
(明慧日本)ご承知のように、同修の間は、大体一つの「サークル」があります。私は長年来心の中に潜んでいる観念や執着が取り除かれていないため、「サークル」の中の同修と間隔が生じてしまいました。
同修と交流する時、彼らは法を正すことに対する認識が足らず、三つの事を良く行っていないと思い、いつも自分の考えを相手に押し付けようとしていました。その結果、よく交流できなくなりました。そうしたら、今度はこれらの同修はもう旧勢力の按排した道を歩んでしまい、法を正す進展についていないと思い込んだのです。
交流する時、いつも相手を責めたり、自分の考えを固持したりしたので、殆ど喧嘩別れになってしまったのです。後で私は自分と同じ考え方を持っている同修とそれらの同修を非難し、とても気持がすっきりしたように感じました。そして彼らのことを残念に思っていました。この状態が正しくないと分かっているのに、なかなか突破できませんでした。
この事を思い出すたびに、私は相手のことばかりを見ていたので、自分の行動にたくさんの言い訳をつけたのです。例えば、私はこんな態度で彼らに対処していいのだろうか。しかし、彼らの修煉に責任を持っているからこそ、このような不平不満をもっているのだと思い、私の表現は常人にも及ばないのではないか。しかし、それは私のせいではなく、彼らが悪いのだと思ったりしていました。これらは皆人間の理と観念で、放下すべきだと分かっているのに、その「根元」をなかなか探し当てられませんでした。彼らのことを思うと、なんだか気分が悪くなりますが、顔を合わせる時には、また無理に笑顔を作って、何のしこりもないような態度をしています。このように、何年来この問題においてずっと昇華していませんでした。
最近、私はだんだん冷静に内に向けて探すようになりました。同修が本当に間違ったのだろうか。たとえ本当に間違ったとしても、私は善の心を持って手伝ってあげたのだろうか。そんなことはないのだ。では、なぜいつも他人を見下げているのだろうか。それは三つのことを自分ほどよく行っていないと思うからだ。しかし、法理の中で、精進している弟子が精進していない弟子を責めていいという内容があるのだろうか。なぜ交流する時にいつも自分の認識が高いと思って、他の人がまだ話し終わっていないのに、口を挟んで「こうすべきだ、ああすべきだ」と言ってしまったのだろうか。皆が自分の話に耳を澄ましたり、認めたりすると、いい気になって、自分が他の同修よりよく行っている、自分が先頭に立って、他の同修が法を正す進展に付いて行けるように推し進めているのだと思ったのです。もっと深く掘り出すと、この全ては皆「自我」と緊密につながっていると気付くようになりました。
これは正に私の突破すべきところであり、もし同修の欠点ばかり見ていれば、いつになっても昇華できないと悟りました。師父は「師父として、私は皆さんが修煉の中でした間違いにこだわったことはなく、皆さんが行なった良いことと成果だけを見ています」(『至難の関から抜け出す』)とおっしゃいましたし、また天上の如来が全体で相談してから事柄を決め、もし足りないところがあったら、黙々と補充し、圓容するという法理を教えてくださいました。我々大法弟子はもしそのような境地に達しなければ、圓満できないと思っています。
師父の『法輪大法—オーストラリアの修煉者に対して法を説く』の中で何度も「自分を探し、内に向けて修める」ことと「全体を圓容する」ことを言い含められました。私は涙ぐんで、5回も見ましたが、師父は私の手を取って、しっかり歩みなさい、後はもう直ぐだと、いらいらされながら、根気よくたしなめてくださっているという感想でした。確かに、長い間同修との間隔を徹底的に取り除かなければならない、もしこの最後の機縁を逃してしまえば、取りかえしのつかない巨大な損失と後悔を残すことになるに違いないとつくづく感じました。そしてこの問題を解決するためには、よく法を学び、内に向けて探し、観念を徹底的に変えなければならないと思いました。
正念を発する時に、私は同修との間隔を徹底的に解体するという一念を付け加えました。そして、正念を発するに従って、それらの良くない物質はどんどん少なくなり、最後は全部なくなったと感じました。それらのものが全部消えてから、同修に会うときに、昔の嫌気がなくなり、かえって親しみを感じるようになりました。また事あるごとに他人のために考えるようになりました。それは良くないものが取り除かれてから、その空間場が慈悲に取って替わったからだと思います。
ある時、私は何人かの同修と一緒に正念を発しました。その前に1人の同修が疲れすぎたため、寝てしまったのです。正念を発する時間になると、彼を呼び起こそうとしましたが、随分疲れていると思うと、もうちょっと休ませて、彼の分を私は代行しようと考えを変えたのです。正念を発する時間が終わりに近付く時、その同修に邪悪を取り除き、威徳を立てるチャンスを逃させてはいけない、やはり呼び起こすべきだと急に思いつきました。しかし、後でまた考えを変えました。いずれにせよ、これらのことを考える時、私はずっと彼の立場に立って考えていたのです。それは昔の私にはとても出来なかったことですが、大法に同化する中で一歩前進したと思います。
振り返ってみれば、この間隔を取り除くことは本当は難しくないのに、私は何年もかかってやっと取り除いたのです。そして、それを取り除いてから、相手を見る時の基点もすっかり変わったと感じました。同修がよく行わなかった時、私は別に相手を責めたり、裏で論議したりするのではなくて、彼は絶対良く行えるのだ、自分の不正な考えで相手に良くない物質をだしてはいけないと思い、また同修が病業の関を乗り越える時や状態がよくないとき、私は黙々と正念で加持しているのです。そして、同修と意見が食い違った時、もう自分を守ったり自分の意見を固持したりするのではなく、誠意を持って本音を打ち明けて自我を放下し、全体に圓容するようにしているのです。
間隔を打ち破り、全体を形成することは我々大法弟子の一人一人にとっては、最後に必修し、また終了しなければならない課程だと思っています。同修の皆さん、一緒に努力しましょう!
個人の会得ですが、慈悲なるご指摘をお願いします。
2007年12月27日
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2007/12/24/168922.html)
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