同修を救援するのは正念を固め、全体で昇華する過程である 文/中国遼寧省西部地方大法弟子
(明慧日本)2007年11月、本市の教師である大法弟子は公安局へ身分証明書の手続きに行く時、邪悪に強制連行されました。その前に私たちの地区では他の同修を援助することについて、お互いに意見のずれがあったため、いくつかの救援組に分裂することになり、表面上、皆が参与しているように見えますが、自分の意見が採用されなかったことから、熱が冷めてしまった同修がいるので、結局その同修が不法に実刑を下されるという結末になりました。この事をずっと注目していた地元の同修もこの結果を見て落ち込んでしまいました。救援を受け持つ何人かの協調責任者も顔を合わせるとき、表面では和気藹々ですが、内心では何かに隔てられ、妨害されているように感じました。
今度強制連行された甲という同修は前回の救援に参与した協調責任者の1人なのです。甲が強制連行されたのはちょうど全体として落ち込んでいる時期でもあるし、この事件を前にして、一時どうすればいいか迷ってしまいましたが、最近の師父の説法を学んでから、前回の不足を反省し、なんと言っても、邪悪が現れた以上、このチャンスをよく把握してそれを徹底的に取り除き、如何なる困難があっても、最後までやり抜いていこうという決心を固めるようになりました。
公安局へ事情を調べに行く同修もいるし、この事を地元の民衆に邪悪を暴露する資料として編集し、広範囲に配布する同修もいるし、この事を元に同修・甲の職場の校長への手紙を含むいくつかのバージョンの善を勧める手紙を書く同修もいるし、その同修の教えている二つの班の生徒の名簿を手に入れ、一人一人に手紙を出したり、地元の610弁公室と公安局に手紙を出したりする同修もいたのです。しかし、それから20日以上たっても、やはり表面上何の実質的な進展もなかったのです。
ここでこの事件に対する私個人の理解と考えを話したいのですが、同じ問題でも、人によって見方がそれぞれ違うし、理解もやり方も違うのです。それぞれの人に対して、法の要求もそれぞれ違うのです。皆はそれぞれ異なることを行っているように見えますが、実は同じことを圓容しています。これは正に法の有機的な運行というものでしょう。
今度救援する事に関してそれぞれの同修と付き合うとき、我々全体としての一つの欠陥に気付きました。つまり、プロジェクトを具体的に推し進める過程の中で、一人一人異なる次元にいる法の粒子に対するそれぞれ違う境地の向上という法の要求も中に含まれているのです。しかし、我々は往々にしてプロジェクトの表面の進展だけを注目し、その中での自分の向上をおろそかにして、具体的な事柄の中に陥ってしまうのです。今度我々のすべての真相資料は皆数日で完成したにも拘らず、同修・甲が1カ月近く経ってから釈放されたのは、我々が全体として実践の中で法理上の昇華が付いていなかったからだと思っています。
(1)この世間での表現としては、我々は救援する希望を同修の職場の責任者である校長に託し、彼が交渉に行ってくれれば解決できるだろうと思ったら、その校長からこのことはとても私の力ではできないという回答をもらったのです。
(2)我々はその希望を公安局の責任者や610弁公室に託し、それらの人に真相を分からせれば、解決できると思ったら、「規則どおりにやらなければならない」と返事したのです。
実は参与したすべての大法弟子が皆自分の次元で法に符合した行為で行うべきすべてのことを全部やると、すべての生命も正の要素の支配したとおり自分の位置につけるわけです。これも大法弟子が法を実証することの、世間での真実の現われとも言えるでしょう。また法を堅く信じる過程も旧勢力及び旧の要素が取り除かれ、解体する過程なのです。しかし、それらの邪悪が瀕死のもがきの中でもやはり我々が法理上明晰に認識していないところを隙に付け入り、虚像を作り上げ、それらを認可させようとするのです。もし我々はそれを見透かす事ができなければ、それらに惑わされ、それらを認めた上でそれらを打ち破ることになってしまったのです。その結果ひたすら事柄の中に陥り、校長はなぜこのように答えたのかと考え、そして内に向けて我々のどこがいけないと探したこともなければ、本当の決定権は610弁公室にあると、法に則ってよく考えたこともありませんでした。師父は旧勢力そのものの存在すら認めてはいけないと教えてくださったのに、やはり無意識の内にこの嘘の現実に心を動かされてしまいました。
このことの背後にある邪悪を見透かしてから、これらの邪悪に惑わされず、邪悪を取り除くように、参与した同修と交流しなければならないと思いました。そうしたら、同修たちは自ら会いに来たり、或いは町でばったり会ったりするようになり、法の圓容した運行方式、それから弟子を向上させるための師父の苦心された按排を身をもって体験しました。
交流の時、皆は今まで法理上はっきり認識していないところを全部はっきり認識するようになりました。帰る途中で私は同行した同修に「(同修甲が)もう帰るはずだ。これ以上拘禁されるはずがない、もしかすると、今帰るかもしれない」と言ったとたんに、携帯電話に「(同修甲が)もう帰っている」というメッセージを受信したのです。
それから、大法弟子は救援する過程で慈悲で和やかな心理状態を持つこともとても大事なのです。如何なる環境でも、どんなに刺激されても、この慈悲で和やかな境地を保つことが出来れば、この状態の下で発した正念はすべての邪悪を驚き恐れさせ、あらゆる生命の正しくない思考要素を解体することができ、この迫害もそれにより終わらせることが出来ると思います。
同修・甲の家族に接する過程の中で、師父も我々のそばにおられ、常に注意してくださり、分からせるようにヒントを与えてくださったのです。同修・甲の母親も修煉者ですが、私と他の2人の同修と甲の母親4人で甲の妹さんの家に行って、別に自分達の考え方を押し付けるのではなく、ただ甲の今の状況と私たちの考え方を話したら、一緒に協力して甲を救援することを快く承知しました。即座に彼女と一緒に公安局の責任者に会いに行く同行者を探しました。しかし、電話でたくさんの同修に聞いてみましたが、やはり見つけることが出来ませんでした。仕様がないので、私たちは先ず帰ることにしました。ところが、彼女の家を出て、ちょっと行ったところ、私はかばんを落としたことに気付いたので、急いで彼女の家に戻って取ってきました。暫く経ってから、今度また携帯電話が見つからないため、仕方なくまた甲の母親ともう1回戻ることにしました。しかし、彼女の家に着くと、手をポケットに入れたら、不思議なことに、携帯電話がそこにあったのです。
その時、甲の妹さんはまだ同行者を探し当てていません。この一連のことを振り返ってみて、それは師父のお諭しだと分かるようになったので、「私がお供するから、私たち3人で行こう」と甲の妹さんに言いました。
私たちは公安局で責任者に会った時、私の身柄を聞かれて、甲の弟だと答えました。その責任者はそれを疑わしく思っていたようですが、事務室に入らせました。最初のころ、他所の空間での邪悪に制御されたため、彼はとてもいばった態度を示しました。しかし、私はそれに心が動じることなく、落ち着いて彼に聞きました。
「姉の件の進み具合は今どうでしょうか」。
「それはもう労働教養と決めた」。
「まだ挽回の余地がありますか?」。
「それはないだろう。市の公安局長がとっくに以前決めたのだから」。
「何とかしていただけますか?」
「本当に成す術無しだ。後は天に任せるしかない。もし馬三家労教所で健康診断が不合格とかいう理由で、受け入れないとすれば、私はすぐ釈放してあげる。本当をいうと、今私たちはこの事に構いたくないのだ。もし町でチラシを配ったり何かをしたりするのを見たら、見てみぬ振りをするよ。ただし、このことは上司からの指示だから、私にはどうしようもないのだ」。
彼と1時間近く話し合いましたが、彼の態度がどう変わろうとも、私は始終落ち着いて対処し、自分でも自分の定力がとても強いと感じ、どんなことでも私の大法を堅く信じる心と彼の背後にある邪悪の生命と要素を取り除く信念を揺すぶりません。そうすると、彼の本性が段々現れてきて、自分の出来る限りのことをやるとまで言いました。これ以上話しても無意味で、決定権は彼のところにあるのではなく、師父のところだとよく分かっています、しかし、この生命の背後にある邪悪に対しては、それを取り除くようにしなければならないと思っています。
私と甲の母親は先に事務室を出ました。離れる前にその警察はまた「あなたは本当に(甲)の家族ですか」と聞きました。その時私はただちょっと笑っただけで何も答えませんでした。しかし、今そのことを振り返ってみて、自分の行為は法の要求とはかけ離れていると分かるようになり、その生命にとてもすまない気がしてならず、正念を発する時にこのことのために涙を流したことさえあります。私はもっと堂々とした身分でその生命との距離を縮めるチャンスを逃してしまったのです。今分かったのですが、相手はどんな職業をしていて、どんなことをしたにも拘らず、私は彼と対立や敵対の関係ではありません。正に師父が「大道無敵天地を行く」(『洪吟』<太極>)とおっしゃったように、修煉者には敵がいないのです。しかし、大法と大法弟子を迫害していて、それにより既に宇宙で存在する価値のない邪悪に対しては、必ずや厳粛に取り除くようにしなければなりません。もしかすると、人の表面での表現は静かで和やかであればあるほど、よその空間での邪悪を根絶する威力が強くなるかもしれません。
甲の妹さんはまた助けてくれるようにその警察に頼みたいようですから、「姉さん、彼も困っているから、もう帰ろうか」と言いました。しかし、彼女はやはりこれで諦めないようでした。もうこれ以上何も言えませんから、「全ての決定権は師父が握られている。最も正の要素が作用するようにする」と確固たる一念を発しました。
2時間後に甲の妹さんに電話をかけて様子を聞いてみたら、自分の弟に5千元を持たせてきて、その警察にあげようとしたが、どうしても受け取らないから、仕様がなく帰ってきたと教えてくれました。それを聞くと、私は更に大法弟子の正念は威力のあるもので、全てを変えられると感じました。「人はそこに坐ったまま、手も足も動かさないで、他の人が手足を使っても出来ないことをやり遂げてしまいます」。(『転法輪』)
皆は法理上の認識が段々明晰になるにつれて、このことの結果もますます明らかになり、市の公安局長が受け持ちの警察に「この事件の影響力があまりにも大きいから、慎重に考慮して処理しなさい」という電話がかかってきたと分かる時、後の結果、必然的な結果はもう分かっていました。
この事を通して、私たちは全体として大法の圓容不滅、自動的に修繕するという機制を体験し、そして、大法に溶け込み、法の一粒子になれば、大法より知恵を与えてくださり、果てのない法力を示してくださることも深く感じました。一人一人の大法弟子は皆自分なりのやり方で大法を実証し、他人の不足を黙々と補い、全体に圓容するようにすることをやり遂げる時、邪悪もそれにより取り除かれるに違いありません。
2007年12月31日
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2007/12/27/169108.html)
明慧ネット:jp.minghui.org
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