■日本明慧 http://jp.minghui.org/2008/01/02/mh034671.html 



出発点を正し 私心や自我の状態から抜け出そう

 文/大陸大法弟子

(明慧日本)大法弟子が師父を手伝って法を正す過程はすでに風雨を伴った8年あまりの年月を経た。師父の慈悲なる加護の下で、当初はどうすればよいか分らなかったが、今はますます成熟してきた。その間、師父は私達のために苦労をし尽くされた。今まで私は修煉の中で依然として悟性が優れず、人心が多い自分を、恥ずかしく思っている。絶えず法を勉強し、同修の交流文章を読むことを通じて、大法弟子が師父を手伝って法を正す際、三つのことを行なう中で、ことを行う出発点は非常に重要であり、出発点が正しければ、邪悪は隙に乗じることができないということを認識できた。これは大法弟子が師父を手伝って法を正す8年あまりの間、血の教訓を通じて悟った法理である。

 師父を手伝って法を正す中、同じことをするにしても、どうして異なる結果が得られるのか? これも私たちがずっと答えを探している問題である。例えば、当年、天安門広場に行って法を実証する際、一部の同修はその日に行って、その日に帰ったが、一部の同修は捕まえられて迫害された;同様に真相資料を配っていても、一部の同修はずっと正々堂々とやっていても、迫害されてないが、一部の同修は捕まえられて迫害された;同様に病業が現れたが、一部の同修はすばやく関を乗り越え、一部の同修はとても長い時間が経っても、乗り越えることが出来ず、ひいては病魔に命を奪われた;邪悪に捕まえられた後、一部の同修は断食で魔窟を逃れたが、一部の同修はそうできず、ひいては邪悪に迫害されて死亡した;資料を作る同修の場合、一部の資料点はずっと着実に運行しているが、一部の資料点は破壊され、同修が逮捕された;同じく協調人の場合、一部の同修はとてもよく協調できていて、その地区は一体となっているが、逆に一部の強調人はトラブルに巻き込まれており、ひいては捕まえられて迫害された。多くの同修はこれらの情況を目にしており、一部の同修は自ら体験した。どうして異なる結果が得られたのか? 答えはとても明確であり、それはことを行なうときの出発点が異なるからであり、それによって異なる結果が現われたのだ。

 実際、大法弟子は三つのことを行なう中、もし出発点が正しければ、すでに完全に自分で自分を保護する能力があるのだ。はっきり言うと、その時大法弟子はすでに神である。師父は説かれた法の中で私たちに、すでに1999年7月20日以前に大法弟子を全部所定の位置に押し上げたと教えてくださった。所定の位置に押し上げた、とはどういう概念なのか? それはほかでもなくすでに佛法神通を備えた偉大な神であるということである。しかし大法弟子は人心があまりにも重く、悟性がすぐれず、ずっと人心で師父の説かれた法を理解し、人から抜け出して、神になることができない。実際、人間と神には一念の差がある。「常人の心を放下して 法を得れば 即ち是れ神 三界の外へ跳び出して 天に登って佛身に乗る」(『洪吟』の「廣度衆生」)。大法弟子は人心を放下すれば、すなわち神であるが、未だに多くの大法弟子は人心を放下しておらず、成仏しようとしない。

 そうであれば、大法弟子は師父を手伝って法を正す時、三つのことを行う中でどうやって出発点を正すべきか? 私の理解では、旧宇宙の自分のための本性を徹底的に取り除き、新宇宙の他人のための本性に同化すること、即ち無私無我、他人を先に、自分を後にする境地に到達することである。例えば、法を勉強し、煉功する出発点は自分の円満と次元の向上だけのためではなく、法を勉強し、煉功することを通じて、人心を修め、宇宙の特性に同化し、本体を浄化し、神通を強化し、邪悪を取り除き、衆生を救い済度する能力を向上させるためであり;真相を伝え、真相資料を配る出発点は衆生が真相を分かり、救い済度されることのためであって、自分にいかに能力があるかを実証し、威徳を積むかのためでない;正念を発するのは自分の安全のため、自分が迫害を受けないためでなく、邪悪を取り除いて、大法を実証し、衆生を救い済度する環境を切り開くためである;病業が現れた時、正念でそれを否定し、自我を放下し、病業に対する執着を放下し、大法弟子として行なうべきことを行ない、病業のために三つのことを行なうのでなければ、すばやく、直ちに病業状態から抜け出すことができる、さもなければ三つのことを行なうのは病業状態から抜け出すためとなり、抜け出すのにかかる時間が長くなる;同修の欠点が見えたとき、完全に他人のために考えるという、穏やかな慈悲の心理状態で、同修を指摘すべきであり、非難したり、愚痴をこぼしたり、軽視したり、自分を顕示したりしなければ、相手は指摘を受け入れ、トラブルが生じない;協調人の間で意見が統一できない場合、自分の観点を主張し続けるのではなく、自ら相手に円容すれば(相手があきらかに間違った場合は除く)、同修の間には隔たりが生じず、一体をなすことができる。

 私たちが法を実証す時も、自我を放下し、自分を実証しようとする如何なる要素も持たず、衆生を救い済度しようとすれば、邪悪は隙に乗じることができない。往々にして、邪悪が隙に乗じる時は、法を実証しようとせず、自己を実証しようとする場合である。私たちの以前とてもよくできていた同修が最後に迫害されたのは、褒め言葉を多く聞き、自我を実証する心が生じ、ことを行なう出発点が正しくなく、三つのことを行なう中で、法を実証しておらず、自己を実証したため、邪悪に隙に乗じられたからであり、教訓は深刻である。

 同修たちよ、法を正すことはすでに最後の最後にきている。私たちはすでに自分がこの世にきた使命、自分の負っている責任が分かっている。旧宇宙の自分のための本性を、新宇宙の他人のための本性に同化しよう! 自我を放下し、すべての心を放下し、如何なることをするにしても、法を実証し、衆生を救い済度することを出発点にすれば、私たちは最後の道をより良く、正しく歩むことができる。

 2008年1月2日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2007/11/17/166625.html

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