同修の皆さん、「小さいこと」から修めましょう
(明慧日本)ある同修はかぼちゃの販売で生計を維持していますが、ある日、こんなことを教えてくれました。
他のある同修が彼女のところへかぼちゃを買いに行きました。思いがけないことに、重さを計ってから、その同修は支払いをする時に、自分で400グラムより下の端数を切り捨てたのです。つまり、400グラム分のお金しか支払わなかったのです。かぼちゃを販売する同修の家族はそれを見て、とても不満でした。特に今年は凶作なので、その同修の家族は余計に収入が気になるのです。その同修の家族はまだ修煉していませんが、日ごろ「法輪大法は素晴らしい」、「真・善・忍は素晴らしい」とよく唱えるようにと、その同修がよく勧めており、真相も伝えています。その時、家族の人はその同修に向かって「修煉者はこんなものですか? 毎日のように『真・善・忍』を学んでいる人は、こんな行動をとるのですか?」と言ったのです。確かに、たとえ常人でも買い物する時に、一気に400グラムを切り捨てることはまずないのです。
その後、その同修がいくら家族に説明しても、やはり説得できませんでした。普段、真相を伝える効果がこのことのせいで台無しになったと思うと、その同修はとてもつらい思いをしました。
もし我々が良く行わなければ、世の人々に良くない印象を与えてしまい、自分も業を作ることになります。そして、後でまた真相を伝えようとしても、もう相手が抵抗感を持っているため、人為的に救い済度することの難しさを増やすことになってしまうのではありませんか? 我々に責任があるのではないのでしょうか? 我々は長年修煉してきましたが、常人の中で修煉しているので、お金や利益に執着する心をすぐに全部放下できないかもしれません。だからといって、それらのものを放下しようとしなかったり、さらにうまい汁を吸おうとしたりしてはいけないのではありませんか?
我々のまだ取り除かれていない旧宇宙の「私(し)のため」という要素、後天的に、世の中で養った利益を求める心を持っているため、無意識のうちにこのような利己的な習慣を養ってしまったのです。普通、常人は買い物をする時に端数を切り捨ててうまい汁を吸おうとしているので、私たちもこのようにやっても別に何の変哲もないと思うかもしれません。しかし、法に則って考えると、実はそれは我々修煉の中の漏れであり、師父のおっしゃった「失と得」という法理をまだ本当に理解していないと思います。まして、師父は「皆さんは多大な心血を注ぎ、衆生を救い済度する中で人々に私達のことを改めて認識させました。しかし、良く行うことができない時、あなたが注いだ努力、あなたがやろうとしていることは、無意識のうちに害の作用を果たしているかもしれません。修煉者の現れは純正なもので、多くの人は皆さんの現れを見て、皆さんのことを本当に良いと思ったのです。もし、普段、自分の行動に気をつけなければ、皆さんの行いは常人の目にとまってしまいます。常人は私達が法を勉強する時のように、深くあなたを調べようとしないので、あなたの行いを見るだけです。あなたの一言一行によって、その人が済度されなくなってしまい、大法に良くないイメージをもたらしてしまうかもしれません。私達はこれらのことを考えなければなりません」。(『2002年度ボストン法会での説法』)と懇ろに教示してくださったのではありませんか?
とりわけ今は衆生を救い済度するというとても大事な時であり、もし我々の法に符合しない一挙一動により、衆生を救い済度することが妨害され、一つの生命が救われなくなることになってしまえば、我々にとっても取り返しのつかない悔しさを残すことになると思います。だから、全力で三つのことを行い、我々の先史の大願を成し遂げられるよう、師父のお諭しをしっかりと覚え、自分の一言一行によく気をつけ、小さなことから自分の良くない考えと行動を取り除くように修めていきましょう。
正しくないところがありましたら、同修の皆さんの慈悲なるご指摘をお願いします。
2008年1月7日
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2008/1/1/169340.html)
明慧ネット:jp.minghui.org
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