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「漏れがある」ことを恐れる心を取り除く


 文/中国大陸の大法弟子

(明慧日本)ある日の午前中、患者の血を取るとき、注射針がよく噛み合わなかったため、血が全部漏れてしまいました。それは私が十数年仕事をしてきて始めてのことでした。特に、患者のベッドナンバーが15番であると見ると、それは「悟る必要がある」という意味であり(中国語では「15」の発音は「悟る必要がある」と同じである)、師父が「漏れがある」と諭してくださっているのではないかと思いました。しかし、漏れはどこにあるのでしょうか。

 その時、私は苛立ってしまい、もっと分かるようにと心の中で師父に求めました。しかし、苛立てば苛立つほど、落ち着かなくなり、また旧勢力に隙に乗じられたら大変だと恐れてしまいました。というのは、数日前に夫とよく連絡を取っていた二人の同修が相次いで強制連行されたため、私は余計に神経を尖らせていたからです。その時、この状態が正しくないと急に気付くようになり、それは「漏れがある」ことを恐れることであり、取り除かなければならない頑なな執着心ではないかと分かるようになりました。

 なぜ「漏れがある」ことを恐れるのでしょうか。それも根本的に旧勢力を否定しておらず、無意識的に「漏れがある」と旧勢力に隙に乗じられやすいという正しくない心理状態が裏に潜んでいるのです。人が修煉している以上、「漏れがある」ものです。もし師父のおっしゃったような「修して執著を一つも漏らさこと無きを得れば」(『洪吟』「迷中修」)にまで修めれば、それは神になったのではないのでしょうか。実は自分に「漏れがある」ことが分かるのはよいことであり、それは向上するチャンスなのです。絶えず自分の不足を意識し、絶えず向上する、これこそ修煉ではありませんか。師父が一時一刻も我々のそばにおられて、我々を見守ってくださっておられるのです。我々のよく行っていないところや取り除かなければならない心を分からせるため、師父はそれを暴露するようにしてくださっているのです。法の学習を通して絶えずさらに高い法理が分かり、よくないものを取り除いていくのが我々の修煉であり、師父が按排してくださる修煉の道なのですが、旧勢力が参与し、妨害する資格があるのでしょうか。

 同時に、私はまたこのような執着心に気付きました。つまり、同修が捕まえられてから、私は法を学ぶようにとしきりに夫を催促していますが、それは法を多く学ぶと旧勢力に隙に付け入れられて迫害されることがないという正しくない心を持っていたのです。法を多く学ぶことに間違いはありません。しかし、それは自分を高め、法の中で絶えず自分を正に帰すためであり、旧勢力と如何なる関係も無いのです。それと同じように、多く正念を発すると、旧勢力に迫害されることがないという心を持ちながら正念を発するのも正しくないのです。それは正念を発することの意味を曲解することになるのです。正念を発することは師父によって教えていただいた宝物であり、我々が神通を運用して自ら進んで邪悪を取り除くことなのです。衆生を救い済度することを妨害する全てのものを皆取り除くべきです。それは宇宙で法が正されることの要求であり、我々の神聖な使命でもあります。旧勢力のすべての要素はすでに取り除かれることが運命付けられていますが、我々の修煉はそれらといささかの関係もないのです。

 この文章を書いて、同修の皆さんと励まし合いたいのです。我々は「漏れがある」ことを恐れず、「漏れがある」ことを正視し、その漏れを補うようにすれば、これこそ本当の修煉者に恥じないことなのです。

 2008年1月8日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2008/1/4/169568.html