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修煉者の間の「十年粟と八年ぬか」(宿怨)


 文/トロントの大法弟子

(明慧日本)修煉者の間には、「十年粟と八年ぬか」のような宿怨がとても多いのです。私たちは人間の世の中で何千年もの間、輪廻転生を繰り返しながら、お互いに結んだ宿怨も少なくありません。今日修煉をしようとするなら借金の返済と同じように、私たちも歴史上に作った借りを全部清算しなければなりません。もちろん実質的に大部分はすでに師父が取り除いてくださり、私たちが耐えなければならないものはそんなに残っておらず、一部分に過ぎません。正法修煉中に表れるものはお互いに各種の正法プロジェクトの中の心性の摩擦です。師父はすべてを利用して私たちのお互いの宿怨を解消してくださっているので、私たちが法に照らして、心性を向上させるいい機会なのです。

 今、私たちの同修の中で一部の人はまだこのことを意識せず、相変らず相手の言動にとても執着しています。例えば、「法を破壊するかもしれない」とか「修煉している人にふさわしくない」とか「彼は自分自身を修煉していない」など、いつも相手の言動を念頭に置いて、不平で腹が立つのです。自分自身のこういう状態こそが修煉者の状態ではないことに気づかないのです。私たちがまず明確にしなければならないのは、「この宇宙の中に、本当にこの法を少しでも動かすことができる生命は誰一人もいない」ということです。誰かが動かそうとするならば彼は最も大きい難に直面することになります。それなら、もし本当に同修がよくないことをしたら、彼のために心配すべきで、彼を打ち倒す気持ちになってはいけません。

 ある時、同修がとても失礼なことをしたと自分が感じるとき、こういう話をよく聞きます。「某某は何々をした、本当に常人にもおよばない」。こんな時相手も修煉者だからと思って、法理で彼に要求してしまいます。しかし、その時に師父の教えの「殴られてもやり返さず、罵られても言い返さない」を忘れてしまっており、修煉者には絶対に偶然なことは発生しないということを忘れています。あなたがこういうことを聞いたことは、もしかしたら、あなたが相手に対して責任を持ち、同修に関心を持たなければならない試練かも知れません。

 業を返すことだから必ず心に刺激があり、私たちに必ず辛さと不愉快をもたらします。座禅する時、足が痛くなければ業を消せないのと同じ理屈です。したがって同修が「返済を督促」する時は、必ず自分が最も大きい代価を払うと感じる時です。この時、相手はとても失礼で、とても傲慢で、とても執着し、あなたにみじめで不公平だと感じさせ、侮辱にあったと感じさせるのです。

 私たちは時には法でこういう問題を対処できず、心の底から相手の「過失」を深く心に刻みながら、修煉過程中に同修間の摩擦を生んでいるのです。各種の正法プロジェクトでこの同修のすることが気にいらず、その同修には問題があると見る一方です。協力しなければうまくいかないことを知りながらも、胸中の問題があるため主動的になりません。こういう問題は今、神韻芸術祭のチケットの販売に赤裸々に表われています。

 ある同修はこのように話すのも正しくないというのです。なぜならあの同修は確かに法理上にはっきりとわかっておらず、まるで常人が仕事をしながら他人の協力を求めているようだ、どうして私が彼に協力しなければならないのか? 本当に相手に対して責任をもち、法に対して責任を負いながら、衆生に対して責任を負うならば、絶対に手をこまねいておくことはできないのです。積極的に、主動的に参加して協力するとともに、善意に法理上で交流しなければなりません。もし自分がしたことが本当に法に従っているならば、相手がそんなに頑固で変わらないことはないとわかってくるのです。なぜ「佛光が普く照らせば、礼儀が圓明となる」を信じないのでしょうか?

 正法が全面的に衆生を済度する段階に入った今日、師父は説法の中で繰り返して「協調する」ことを強調しておられます。私たちが「協調をよくする」ことを修煉できなければ、新宇宙には入れないのです。大法弟子の全体が純粋でないならば、どうやって衆生を済度できるのでしょうか? 例をあげてみましょう。私たちは12月10日朝、約20人の同修たちが地下鉄駅の入口で神韻公演の宣伝に参加しました。効果は本当にとても良かったのです。大型TVと天女たち、2メートルの大型ポスター4枚と、10人余りの赤い帽子をかぶった修煉者たちが1時間の間に2千余枚のビラを配布しました。

 今回参加した同修たちは大部分が仕事を持っている若い同修でした、皆自発的に楽しく参加しました。ビラを受け取る人がとても多いことで、皆はとてもうれしかったのです。参加した同修は全体の力の強さをもう一度体験することができました。そのエネルギー場は巨大で、通り過ぎる人々も皆感じることができました。また私たちの公演に対しても深い印象を与えました。

 実は、協力する過程はとても簡単だったのです。同修たちは互いに相談して、時間と場所を決めて、予定を修煉者のメーリングリストに知らせました。すると、天女関係の協調者は天女たちを探し、TVを管理する人はTVを準備しました。トロントでは約60人余りの同修たちがニューヨークに行った状況の中で、別に参加募集や電話で説得することもなかったのに、月曜日の朝、地下鉄の駅から出た人は皆美しい「神韻芸術祭」の宣伝を見て、多くの人々がビラを受け取りました。

 私たちのところで、協調者は本当にとても運が良かったのです。なぜなら皆さんがとても応援して協力してくれからです。今なぜこのようにすることができたかを考えてみると原因がとてもたくさんあったのです。しかし、皆お互いに心の底から宿怨が少ないことも重要な一つの要素でした。常人の中でも「仇は解くべきで、結んではいけない」という話があります。師父が私たちの一切を解決するためにあらゆる努力を傾けておられる今日、私たちはどうして私たちの過去の宿怨から抜け出せないのでしょうか? 手を携えて師父を助けて、衆生を済度する仕事を良くできないのでしょうか?

 もし、この時になっても私たちの胸中に同修に対する不満や先入観、願望や排斥する心があるならば、それはゴミだと覚悟しなければなりません。今日の人間関係の中から飛び出し、歴史の輪廻の中から飛び出し、衆生を済度する角度で物事を考えながら、相手も世の中に降りてきた神だと考えるならば、どんな心の結び目も簡単に解けるのです。

 協力と協調をうまくするのは私たち正法弟子が修煉の中で到達しなければならない境地です。「業を滅する」時は心が痛いはずです。私たちが初めて座禅をする時に痛かったことを考えてみるならば、心の痛みが足の痛みにも及ばないとするならば、修煉は易しすぎます。従って、私たちは胸中にある「十年粟と八年ぬか」を吐き出すだけでなく、一切の心性の摩擦に耐えようとする心と力がなければなりません。積極的に衆生を済度する環境の中に飛び込んで、衆生を済度する中で自分をよく修煉しなければなりません。

 個人の体験なので、不当なところがあれば、同修の慈悲深い指摘をお願いします。

 2008年1月9日

(中国語:http://minghui.org/mh/articles/2007/12/13/168333.html
(英語:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2008/1/1/92823.html