純粋で清らかな心で神聖の事を行う 文/中国大陸大法弟子
(明慧日本)私たちの地区に7.20以来ずっと邪な悟り(法に対して誤った認識)をしている人がいますが、ここ何年来少なくない修煉者が彼らに影響され、彼らに従って、邪な悟りをしてしまい、また彼らの紛らわしい弁解に惑わされ、彼らを守ろうとする修煉者もいます。そこで私たちはよく調べてからそれらの問題を暴く文章を書いて投稿しました。しかし、明慧ネットでは発表されませんでした。これはとても深刻な問題で、多大な損失をもたらしたのに、なぜ発表されなかったのだろうと不思議に思っている同修がいますが、このことは我々の心と関係しているのではないかと私は思っています。
一、心が純粋でない。文章を書く過程でこの問題が既に表れたのですが、実は我々が文章を書くとき、事件の経緯と自分の悟った法理を出来るだけはっきり述べればいいのです(もちろん、文章を書くレベルを高めなければならない)。思考の基点は法理、全体、同修と衆生にあるべきで、別に文章が発表されるかどうかということではありません。我々は明慧ネットでの編集を担当する同修の身になって考え、彼らの負担を減らすようにすべきであり、別に完全に彼らに頼るというわけではありません。
二、基準。投稿してから、同修の多くはこう思っています…「早く発表されないかなぁ…発表されれば、法を誤って認識している人や、はっきり分かっていない人を助けることができるのに…彼らが一目見れば問題はなくなるのに…」。
重大な問題に関しては、明慧ネットを見ればいいと師父がおっしゃったことがあります。明慧ネットは我々の交流の窓口であり、そこに載った文章はもちろん問題はありません。だからといって、問題のない全ての文章も全部掲載されるというわけではありません。まさにある同修の言ったように、明慧ネットで発表されるかどうかは、ともかく、我々の心に法があり、自分の基準を持たなければなりません。私の見解としては、明慧ネットで発表されたら、もちろん我々の仕事の助けになります。しかし、本当にそれらの同修を(正に)戻らせようとするならば、彼らが法に則って法を認識することができるようにしなければなりません。こういう意味では、文章の中で書いた内容、理屈を皆全面的で詳細に言えるのに、どうして明慧ネットで発表されるのを待つだけで、別に直接にそれらの邪な悟りをしている人と立ち向かってはっきりと話すようにしないのでしょうか。まさか、我々の交流文章が明慧ネットで発表されなかったら、その(相手方の)邪説が正しいことになるとでも言うのでしょうか。もし、どうしても希望を文章の発表に託するとしたら、我々が頼っているのは明慧ネットであり、大法の法理ではないということになるのではないのでしょうか。それらの人は元々確実に法を学んでいない上に人心が重いため邪な悟りをし、惑わされたのです。だから、本当にはっきりさせるためには、他ならぬ法理に頼らなければなりません。
もう一方の方面では、修煉者の中で確かにこういった現象があります。「…私はだれそれの話しか聞かない。喩え同じこと、同じ理であっでも、だれそれがそのように言って初めて私は受け入れる」。もちろんこのことに関しては、関係のある第三者もまた、内に向けて自分を見なければなりません。例えば、なぜ相手は私の意見を受け入れないのか。同じ理なのに、なぜ私が言うと、相手が受け入れるのか、自分が受け入れているのは法理なのか、その人なのかというように。師父は説法の中でこの問題に関してもう十分に説かれました。特に、『法輪大法—オーストラリアの修煉者に対して法を説く』の録画をもっと学んでほしいです。
もちろん、回り道を歩いている同修を手伝う時、正しくて有効な方法であれば、何でも使えるのです。大事なのは執着してはいけないことです。いざ執着すると、隙に乗じられるかもしれません。もし我々は別に文章が明慧ネットで発表されるかどうかを気にし、待ち望むのではなく、やるべきことなら確実に丹念によく行うようにすれば、それこそ正念で法を実証することになると思います。
三、行って、修める。この事を調査する時、同修のお互いの協力が必要なのです。同修の間に元々しこりはありますが、協力する時に、それに拘らず、自我を放下し、心を合わせて全体を圓容するようにしました。それは言うまでもなくいいことなのです。それだけに、調査は順調に進んでいました。しかし、中にはただ表面上の行動で自我を放下し、徹底的に修めていない同修もいるのです。つまり、この事に影響しないように、自分の執着やしこりを取りあえず置いただけで、実は心の中でやはりそれらのものを固持しているのです。そうすると、この事を完成すると、元々取り除かれるべきものがまたひっくり返ってしまい、更にもっと酷い場合もあります。この中には確かに旧勢力に隙に付け入られた原因があります。ところが、それも我々がよく修めていないから現れたのではないのでしょうか。
だから、ここで同修に助言したいのですが、事柄を行う時くれぐれも己を修めることを忘れないでほしいのです。自分をよく修めてはじめて、努力は半分でも倍の効果があり、本当に我々の所願を成し遂げることが出来るのです。
2008年1月9日
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2007/12/25/169000.html)
明慧ネット:jp.minghui.org
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