日本明慧
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資料点を離れたいという考えが頭に浮かんでから


 文/中国大陸大法弟子

(明慧日本)私は迫害されて、身を落ち着けるところがなくなってから、ずっと地元の資料点の仕事を担当しています。最近、いつも訳もなく苛立っていました。一番ひどい時は、この全てを放り出して、どこかへ行ってしまおうかと思うこともありました。最後には本性の一面が作用し、ここに残りましたが、法理上突破していなかったため、ちょっとした出来事でもまたすぐ苛立ってしまうのです。表面から見ると、ここ1ヶ月、とてもさばき切れないほど多くのことが詰まっていたからです。例えば、何百冊におよぶ経文を作らなければなりません。他の二つの資料点が止まってしまったので、真相資料、週刊、『九評』の数を増やさなければなりません。更に、もともと計画を立てていたプロジェクトも進めなければならず、周りの資料点で使うプリンターやコンピューターの修理が急に多くなっていることなどもあります。いつも朝起きてから、夜12時の正念を発する時までずっと仕事をしており、時には1日に全く法を学ぶこことができない時もあります。

 法をよく学べず、不満はどんどん募っていきました。元々経文が揃っているのに、なぜまた欲しいというのだろうか、協調責任者はなぜこんな仕事を手配してくるのだろうか、などと不満に思ってしまうのです。心性が向上していないため、正念を発する時も静功をする時もうとうとしていて、機械もよく壊れたりしました。

 仕事が多くなるのは、この正しくない状態が原因ではありません。もし法に則っているならば、きっと奇跡が現れ、仕事を早く終わらせることが出来るし、法を学ぶ時間も確保できるのです。たとえ大量に法を学ぶことができず、ただ一段落しか学べないとしても、私が分かるべき法理が現れてくるのです。協調責任者からは、内に向けて自分を探すようにとに言われました。それを聞いて、何も返事をしなかったのですが、心の中で「言うのは楽だが、自分でやってみたら」と反論してしまうのです。そして、昨日もプリンターを修理する時に、苛立ちを抑えきれず、明日はもうここを離れようと心の中で決めました。

 今朝、静功をしている時、私は自問しました。「このように離れていいのだろうか。問題に遭った時には内に向けて探すようにと師父が教えて下さったが、自分のこの決定は師父の按排された道を歩んでいるのだろうか、それとも旧勢力の按排した道を歩んでいるのだろうか。私が資料を作らなければ、この地区では他にやれる同修もいないから、他のプロジェクトを担当している同修に分担させるしかない。そうすると、彼らの時間がもっときつくなり、それは損失になるのではないだろうか」。このように考えているうちに、頭がだんだんはっきりするようになりました。私は『境界』を暗誦してみましたが、自分の不満の根本は「私(し)」のため、不満があるためであると気づくようになりました。もともと私は今月の計画を立てていましたが、本や『九評』を作ることなど急にたくさんのことが回ってきたので、自分の計画を実行できなくなりました。私はそれを不満に思い、それらの事を早く終わらせてから、自分の計画を実行しようと思っていたのです。この正しくない一念のため、自分の機械や回りの資料点の機械が頻繁に故障したとか、たくさんの邪魔をもたらしてしまったのです。

 私は落ち着いて協調責任者の話を考えてみました。彼と交流する時に、彼は『転法輪』の中で、スポーツは体を動かす必要があるのに対して、気功は静止しており、たとえ動くとしても、「緩やかで、ゆっくりとした、まろやかなものである」と書かれていると話してくれましたが、私はそれをよく理解できませんでした。そこで、「修煉する心があればとて、功を得る心無し」と言う言葉が頭にひらめき、私は急に自分の問題点が分かるようになりました。つまり私はいつも「功を得よう」としているのです。常人の時、私は計画通りにやるのが好きで、何でもきちんと計画を立てて物事を行っていました。例えば、毎日の計画、毎週の計画、毎月の計画を立てて、それから計画通りにやるのです。今、資料点で仕事をするときも同じなのですが、毎日何をやるのかをきちんと計画しておいて、それからその通りにやっていき、もし急に何かの仕事が割り込み、計画以外のことが増えてしまったら、気分が悪くなり、今日は何もしなかったように感じてしまうのです。計画を立てることは間違いではありません。しかし、私は修煉を仕事のように見なし、自分で自分の修煉の道を按排しようとしていたのです。どちらも大法を実証することですが、このように自分と他人を区別するのは正しいことでしょうか。自分のことを第一におき、自己を顕示し、実証し、もし思い通りの結果にならなければ、また卑屈になってしまう。それは大法を実証するのではなく、自分を実証している表れではないでしょうか。

 ここまで考えると、その同修の話も分かるようになりました。資料点の仕事も同じく仕事とはいうものの、常人の仕事とは全然違うのです。常人の仕事はスポーツのようなものであるのに対して、資料点の仕事は気功のようなものなのです。我々は人為的に何かをする必要がなく、大法をもって判断し、回ってきた仕事を良くやればいいのです。そして、やるときに純粋で清らかな心理状態を保つようにして、人の観念で対処するのではなく、大法に則って、常に大法を実証することを覚えておけば、師父は絶えず知恵を与えてくださるのです。

 「功能は、人体の潜在能力です。われわれ人類社会の発展に従って、人間の大脳思惟がますます複雑になり、ますます現実を重んじ、いわゆる現代化の道具にますます依存するようになってきているので、人間の本能はそのためますます退化しています」(『転法輪』<意念>)。私はあまりにもこの現実の中での計画の実現に執着したので、心性が向上せず、目に映ったのはたださまざまな仕事、修理しなければならない一台一台の機械であり、それにより邪悪な要素に隙に乗じられたのです。 

 「皆さん考えてみてください。人類社会やわたし達が目にすることのできるこの全ては偶然に存在している可能性があるのでしょうか? ひいては全ての大法弟子の一挙一動、一言一行、あなたが考えている事までただで済むことではありません。将来これらを見れば、全ては相当綿密に按排されていると分かります。わたしが按排したのではなく、それらの旧勢力が按排したのです」(各地での説法 二・『米国フロリダ州での説法』)「わたしに言わせれば、人間の大脳はわれわれのこの物質空間形式において、単なる加工工場に過ぎません」(『転法輪』<意念>)。この二つの段落の説法の学習を通して、私は分かったのですが、それらのよくない考えは、本当の私ではありません。ただ私はそれらを本当の自分と見なしたため、それらはこれを口実に私を制御し、資料点を離れたいという考えを浮かばせ、私に大法を離脱させ、大法を実証する環境から離れさせ、前史の大願をやり遂げさせないようにしていたのです。

 これらのことが分かると、頭がとりわけはっきりするようになり、自分の空間場が非常に清らかになったと感じました。翌日、煉功においても正念を発するときも、とてもよい状態に戻りました。

 不適当なところがありましたら、慈悲なるご指摘をお願いします。

 2008年1月11日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2008/1/5/169662.html