甘粛省:特級教師・候有芳さんの迫害死亡情報の補足(写真)
(明慧日本)甘粛省金昌市原西坡中学校の物理の教師・候有芳さんは2002年11月29日、甘粛省第一労働教養所七大隊で迫害されて死亡、当時48歳だった。以下は候さんが迫害により死に至るまでの状況の補足である。
| 候有芳さん |
候有芳さんは1954年3月30日生まれで、蘭州教育大学の物理系卒である。候さんは学校で毎年、先進教師と優秀特級教師と評価されていた。2000年2月、北京に法輪功の真相を伝えに行った際に捕えられ、現地の城建派出所の警官と学校の校長・黄継生が不法に候さんを金昌に連行し、現地の麻薬撲滅所に半月間監禁した。釈放後、自宅に戻ると夫の牛相林に強制的に離婚された。学校に戻っても授業を止められ、寄宿舎の学生に食事を作るように手配された。元の食堂担当のパート(黄継生の兄嫁)はいつも当てこすりをし、80〜90人の生活用水を両手に1桶ずつ、1回に2桶運ぶように、また学生の自転車をきちんと並べ直し、構内の衛生掃除、ボイラーの燃え殻を運び、燃え残りの石炭を拾うように指示し、手袋もはめさせなかったため、候さんは指先に深い傷を負った。学校の張学友は迫害に参与した一人で、毎月候さんに給料200元しか支給せず、学校側も北京へ迎えに行った時の費用として6千元、候さんの代わりに授業に出た教師の給料1万6千元を払うように要求した。同時に住居も没収すると脅迫し、法輪功を止めると保証書に書けば住居を提供し、書かなければ提供しない、「法輪功を止める」と言えば、全ての給料を与え、授業にも出られるようにすると言った。
2001年6月、候さんは現地の留置場に連行され、所長・胡登平は強制的に候さんの鼻から食物を注ぎ込み(灌食)、乱暴に殴打し、理髪用のバリカンで口を叩き開かせ、顔は殴られて腫れ、身体も傷だらけになった。迫害に参与した者には、以前担任した学生もおり、自分の恩師を助ける勇気がなく、後ろに隠れた。
同年、候さんは現地の金三角市場で真相資料を配っていた時に捕えられた。釈放後、夫には離婚され、娘も母親を認めず、帰るべき家も、食事をするお金も、寝る所もなく、放浪して身を落着ける所がなく、同修の家に避難した。学校の責任者、城建派出所の警官が尾行し、白昼に大通りで候さんを逮捕した。候さんが真相を説明したが、警官たちは候さんを車の中に押したが、大勢の群集が集まって来ると中止して、また尾行した。候さんがある同修の家に泊まると、城建派出所の警官たちは同修の家を囲み、城建派出所、市教育委員会、広州路派出所の警官たちが朝から午後まで騒ぎ出し、午後には家に押し入って候さんを城建派出所に連行し、手錠をかけて吊るし上げたり、「トラの椅子」に座らせたりして迫害した。候さんはある機会をみて錠を外して魔窟から逃げ出した。
候さんは故郷を離れて放浪し、民勤県にたどり着き、続けて真相を説明していた時に警察に捕えられ、「トラの椅子」に座らされて迫害された後、金昌市に送還された。
2001年8月ごろ、候さんは不法に労働教養2年を言い渡され、麻薬中毒回復所の警官・蔡建軍が護送した。出発前、ある警官(氏名不詳)は、「あらゆる方法で必ず候有芳を労働教養所に送れ」と言った。長い間の迫害により、候さんの身体は極度に衰弱し、頭痛、眩暈を起こし、ひどい疥癬ができていた。甘粛省第二労働教養所で入所を拒否され、もう一つの労働教養所でも拒否されたが、最後に蔡建軍が卑劣な手段を使用した結果、受け入れることになり、数人の受刑者が車から候さんを持ち上げて教養所に運び入れた。労働教養所に入ると、蔡建軍は「上からの指示によると、おまえは生きてここから出ることはない」と言った。
甘粛省第一労働教養所の警官・胡瑞梅に指示された受刑者は、候さんを殴ったり、罵ったり、わざと苛めつけたり、数回にわたり手錠をかけて吊るし上げたりし、法輪功修煉者が候さんに渡したお金を本人の同意なしに、勝手に使用した。警察の非人道的な迫害で、候さんは2002年11月29日に死亡した。不法に監禁されている法輪功修煉者の話によると、候さんは死亡する前に、殴られて腕を骨折、肋骨と骨盤が複雑骨折だったと言う。迫害に参与したのは監獄の大隊長・載文琴、労働教養所の病院、教育科などである。
2008年1月14日
(中国語:http://minghui.org/mh/articles/2008/1/10/169986.html)
明慧ネット:jp.minghui.org
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