大法弟子は自分のやることに執着してはならない
文/中国鞍山大法弟子
(明慧日本)最近、私の周りのたくさんの同修にれっきとした不足があることに気が付きました。それは自己を中心にしていることであり、私が人を救っており、法を実証しているという観念を持ち、自分のやること、自分の表現に執着していることです。
師父は『スイス法会での説法』の中でこうおっしゃいました。「実は皆さんはご存知ではありませんが、『私』という心が非常に高い次元まで貫いています。『私は何かをしている』、『私は何かをしたい』、『私は何かがほしい』、『私は修煉している』、『私は成佛したい』、『私は何かの目標に達したい』など、昔の修煉者は言っていましたが、実はみな私(し)の心から抜け出すことができませんでした。しかし、私が皆さんに到達してほしいのは、真の純正、真の無私であり、本当の正法正覚の圓満成就であり、それになってはじめて永遠の不滅に到達することができます」。
師父のこの説法はこんな内包が含まれているのではないかと思います。つまり、最も神聖なことを行うにしても、もし「私」の心性、「私」の悟性、「私」の知恵を現そうとするならば、その基点は他ならぬ「私(し)」にあり、やはり無私無我の境地にまで成就していないのです。そうすると、もちろん衆生の苦しさ、他人の辛さが本当に分かっていないのです。
私たち、みんなが大法の要求、衆生や他人の要求がどんなものであるかというところに基点を置き、例えば、他の地区で真相資料を編集する人がいなければ、私たちが手伝って編集してあげる。田舎の方で衆生を救い済度することの力がまだ足りないのを見たら、いい提案を出して圓容する、このようにすれば、「衆生を救い済度する」ことに関して、更に影響力も大きく、効率もよく、範囲が広いことをやり遂げられると思います。
2008年1月15日
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2008/1/10/169893.html)
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