同修の論争を見て 自分の心を探す
文/武漢大法弟子
(明慧日本)武漢地区では、現在、独身の同修は結婚することができるのかどうか? 離婚した同修は再婚することができるのかどうか? この問題について同修の間で長い間ずっと論争しています。個人の理解では、実は大法の中で、個人修煉は、如何に真善忍に照らして自分の執着心を無くすかを説かれており、個人が結婚或いは結婚しないように薦めることはないのです。生活の中での具体的な問題は、すべて自分に対する要求次第です。
今私達の情況は、あの結婚したい同修は他の同修と一緒にいることを恐れ、同修と婚姻の問題について話をしたくありません。原因は結婚したいと言ったら、「今がどんな時期かを知っていますか? まだ結婚したいの?」、「結婚したいと思うのは色欲の心で、金に執着する心、安逸を求める心だ」などと言う人が出てきます。非難されたほうは同修が冷たい、酷い、もし自分の子が結婚したいと言ったら、このような対応の仕方をするのかと思うのです。このように同修間で互いに非難しあい、婚姻問題について意見が分かれ、同修間の障碍となり、大法弟子が一丸となることにも影響を与え、大法弟子が三つの事を行うことにも影響しました。
以前私は、いつもトラブルが発生した同修たちは向上すべきだ、彼らのことも自分の事だと思いながらも、自分がその中に関係があるとは思いませんでした。今では、時間が長く経ってトラブルが大きくなり、解決できていないことを見て、自分も助けて解決してあげようと思ったとき、やっと自分もその中にいるのだと気付き、内に向かって探す必要があることに気付きました。
同修の欠点や不足を、私は慈悲の心、寛容、善意で注意したのか? 師父が教えてくださった「語気、やさしい心に道理を加える」をやり遂げたのか? よく考えて見ると自分は本当にそうではなく、いつも他人の修煉はよくない、自分が他人を助けてあげるべきだという心があり、自分でその中に身をおいて考えることをしませんでした。同修が「善意」で忠告したことを受け入れなかった時、自分は非難、恨みの心が生まれました。私は同修を非難したい時に、私はすでに大法を守っていせん。根本的にはやはり他人を変えたい、自分を変えたくない、自分を修めたくないのです。もし本当に大きな慈悲で、他人の身になって他人のために考え、自分のことを考えなければ、自然に対立は解消し、共に向上することが出来、自然に大法を守るようになります。同修はすべて師父が管理されているので、私達は「学んで比し修して比す」なのです。共に向上し、共に法を実証するなかで、自我を捨て、互いに協力し合い、一丸となって圓融不破の一体となり、共に正法時期の大法弟子の使命を成し遂げ、師父と衆生の期待を裏切らないようにすべきです。
私達のすべてが内に向かって探し、自我を捨てることができたら、私達のトラブルは瞬時に解消し、婚姻問題も問題ではなくなり、いわゆる障碍も再び現れることはないと私は信じています。
個人の認識ですので、不当な点についてはご指摘をお願い致します。
2008年1月16日
(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2008/1/10/169902.html)
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