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私達は根本的に迫害者の悪行がたちどころに報いに遭うことを求めたか


 文/台湾大法弟子

(明慧日本)最近、迫害をしている部門に電話をかける時、河北省涿州市公安局国保大隊の副隊長・楊玉剛は4〜5人の悪辣な警官とともに、同修を強制連行した記事を読みました。涿州市公安局は2005年に大法弟子の劉季芝さんを迫害することに参与した主な部門の一つであり、ここ2年の間私は何度も楊玉剛に電話をかけましたが、彼の態度はそんなにひどくないので、ずっと彼にチャンスを与えようと思っていたのです。このチャンスの中には寛容の要素も含まれていますが、事実から見れば、それは邪悪に隙に付け入られることになったのです。楊玉剛がひたすら大法に罪を犯しているのに、私は無意識の内に情けの一面(自分はそれを善と理解した)で彼を許し、彼は本性がそれほど悪くないが、ただ長期に亘り党文化に毒害され、更に上司からの圧力のため、そのようになったのだとかれのことを思ったのです。今私は悟ったのですが、実は私は彼の言葉遣いや酷くない態度に惑わされたのです。それから態度や言葉遣いの悪い迫害者に対しても、私はずっと許してやろうと思っており、またそれは善であると思い込んでいたのです。

 師父は『2003年旧正月十五日米国西部法会での説法』の中で旧勢力が法を正すことを妨害することに対して「旧勢力は私の洪大な慈悲を弄んでいます。法は確かに衆生に慈悲深いのですが、しかし威厳のあるものでもあります。法にも基準があり、衆生に対して変わることも破壊されることもないものであり、勝手に左右されてはいけないものです。私は衆生に慈悲深くしてもいいのですが、本当にそこまで罪を犯してしまったら、それを量る法があります。それ以上の慈悲であれば、限度がなくなり、自滅するに等しいのです。ですから、このような生命は淘汰されることになります」とおっしゃいました。情けの要素以外に、実は私は法を正す立場から正念で対処するのではなく、個人修煉の状態に陥り、個人修煉の中で善を大法の厳粛性よりも重要視してしまったのです。私のこのような考えは実は旧勢力の迫害を認めることになったのです。しかし、このような考えを持っている大法弟子はまだ少なくないようです。

 大法弟子の善は修煉者の一つの状態であり、寛容は善の一つの表れなのです。私の理解したいわゆる寛容は相手を受け入れるという意味ではありませんが、相手を許してやるという気持ちが含まれているのです。そして、許してやるという気持ちがある以上、それは旧勢力の迫害を認めることになったのです。大法弟子は迫害者に恨みを抱きませんが、それは別に迫害者の罪がこれにより抹消されるわけではありません。そして、迫害者が大法を迫害することにより犯した罪ほど恐ろしいものはないのです。

 迫害をしている部門に真相電話をかける同修はよく励ましあって、迫害者にまたチャンスを与えるべきだと言っていますが、その中にも彼らの犯した罪を大目に見ようというまぎらわしい認識も混じっているようです。実際のところ、迫害者は決まって大法に対して犯した罪に痛ましい代価を支払わなければならないのです。師父は経文『大法は堅固で粉砕されることなし』の中で「現在、大法に対し罪を犯したすべての悪人のうち、大法弟子へのいわゆる邪悪な試煉に利用する価値がなくなった者が、すでに悪報にあい始めているが、こうしたことはこれから大量に現れてくるのである」とおっしゃいました。正にある同修の文章「現世で大量の報いに遭うことは迫害を終わらせる重要なルートである」の中で言ったように「師父のこの説法は既に悪い報いに遭う範囲を決めるのであり、それは論争の余地のないことです。こういう意味では、見張りをする人、不法に審判し、判決を言い渡す人、つまり迫害に参与した人は皆悪い報いに遭う対象になったのです」。

 もちろん迫害者に対してもまったくチャンスがないとは言えません。ただし、彼らにはチャンスがあるといっても、大法に罪を犯したことのない常人のように大法に対する正しくない考えを変え、邪党組織を脱退して、獣の印を消してから今度の人類の大淘汰から免れることが出来るのとは違って、その外にまた手柄を立てて罪滅ぼしをしなければなりません。もし彼らが悪行を止めるなら、少なくとも罪の上に罪を重ねるようなこと、例えば、壊滅されたり、その災いを自分の親戚や子孫に及ぼしたりするようなことは免れます。しかし、別にこれでもう無罪になったというわけではないのです。ある同修は某悪人が悪い報いに遭い、今倒れたままになっているのを聞くと、電話をかけて、その悪人に「法輪大法は素晴らしい」と唱えるようにと勧めたそうです。私の考えとしては、これは大法の厳粛性を十分に認識していないやり方だと思います。悪人が悪い報いに遭ったのは彼が大法に犯した罪によりもたらされたのですが、どうしてまた大法を利用し、自分の罪を逃れることが出来るのでしょうか(勿論真心を込めて具体的な行動で罪滅ぼしをする者はその度合いにより罪を減らすことはできる)。大法に罪を犯したことのない常人でも、もし大法によくない考えを持っているならば、それにより淘汰されるのに、まして大法にあれほどの罪を犯した悪人ではありませんか?

 楊玉剛らがあえてひたすら悪事を働く重要な原因の一つは、自分が罪を犯し、それにより悪い報いに遭うことを信じないからだと思います。悪党の毒素を注ぎ込まれた彼らは既に大法が迫害される真相に対して、正しく判断する能力を失ったのです。そのため迫害者が現世で報いに遭うことは彼らがこれ以上罪を犯すことを止めることが出来るかもしれません。最近ある同修の文章「悪事を働いた者は必ず犯した全ての罪を償わなければならない」の中で夢の中で見たことを書きました。彼の夢の中で大法弟子を迫害した事のある1人の警官が油を沸かした鍋のそばで跪いて泣き喚いています。「先ほど鋸で体を二つに切られたばかりなのに、今度またこの鍋に投げ込まれる。何であの時法輪功を迫害しただろうか。私はただ下された命令を執行しただけで、私も被害者なのだ」。その警官は上半身が裸になって、しっかり縛られています。体は血だらけであり、血がまたしきりに滴っているのです。その悲惨な光景はとても見るに忍びないのです。もし悪人が悪事を働けば、直ぐ現世で報いに遭う、例えば、人を殴ると、手が上がらなくなったり、人を罵ると話せなくなったりすれば、それは悪い報いに遭ったと分かり、それから控えめになったり、悪事を止めたりするかもしれません。そして、もし広範囲に亘ってこの現象が現れるとしたら、またあえて大法に対して罪を犯す人がいるでしょうか。もちろん悪い報いに遭うことの度合いと形は法に基づいて決まるのですが。

 2年前の旧暦の新年に、私はある迫害をする部門の責任者に真相電話をかけるとき、その責任者はもう法輪功のことに構うことが出来なくなった、今脳溢血のため、休んでいると教えました。「借りを作ったら必ず返済しなければならないのです。今あなたの唯一の機会は手柄を立てて、罪滅ぼしをし、自分の同僚や部下にこれから法輪功を迫害することに参与しないと伝え、また周りの人に大法の真相を伝えるようにすべきだ」と彼に教えました。彼は反論せず私の話を落ち着いて聞いていましたが、最後はため息をつきながら、それは自分にはできないといいました。しかし、明らかに彼はそれが因果応報だと分かり、少なくとも彼や彼の家族はもう大法にたいして罪を犯すことはないと私は思っています。

 師父は『大法弟子の正念は威力あるものである』の中ではっきりと教えてくださいました。「ある大法弟子は邪悪な生命を見た時に、法輪と大法の神通を発し、邪悪を取り除き、さらにある大法弟子は世間で人を殴る凶悪犯や、殺人犯に対して、時を定めてある日のある時間に応報にあうようにしたが、邪悪な要素を有効に取り除き、悪人を抑制した」。この経文が発表されてから既に6年余り過ぎましたが、我々は果たして地元で迫害に参与している悪人に現世で悪い報いに遭わせることを重視し、毎日正念を発する時に確実にやったでしょうか。別に迫害が現れてからそのように正念を発し、環境が緩和すると気が緩んでしまうのではなく、迫害が停止するまでずっと続けて強大な正念を発しなければならないのです。もちろんその先決条件としては正念を発する時に純粋で清らかな心理状態を持ち、基点を正しく置くようにしなければなりません。

 大法が迫害されてから、既に9年目に入りましたが、以来ずっと繰り返し迫害に参与する部門や迫害者は非常に多いのです。更に一部の悪人がここ9年来ずっと大法や大法弟子を迫害しているのです。今よく考えてみれば、その中には我々自身が法を正すことの厳粛性を十分に認識できないことから人為的に邪悪を養った要素もあるのではありませんか。悪人は悪い報いに遭わなければならないと師父がおっしゃいましたが、私と同じように、師父がこのように為さることをただ待っている同修が他にもいるのでしょう。実は師父はその威徳を立てるチャンスを私たちに与え、どのようにするべきかということも私たちに諭してくださっておられるのです。現世で大量の報いに遭うことは迫害を終わらせる重要なルートであるだけでなく、衆生を救い済度することのもう一つの形式でもあるのです。

 個人の見解ですが、同修の皆さんの慈悲なるご指摘をお願いします。

 2008年1月16日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2008/1/9/169889.html