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「資源」についての考え


 文/中国唐山大法弟子 皓璋

(明慧日本)『法輪大法—オーストラリアの修煉者に対して法を説く』のビデオの中で師父は豪州の大法弟子がはるばるとアメリカに来て法会を開き、60〜70万の旅費を使ったことに言及された時、我々大法の資源はこのぐらいしかないとおっしゃいました。そのお話を聞いて、私は感慨深かったのです。大法弟子の一人一人はこの世で多かれ少なかれ収入を得ています。しかし、我々に所属する資産の多少に関わらず、それは先ず大法弟子の資産であり、つまり全体の大法資源の中の一部分なのです。それなら我々はこの立場から我々に所属する財産を見るべきなのではないのでしょうか?

 押し広めて言うと、我々それぞれの大法弟子が持っている独特な技能、特長、学力、社会的条件と地位、更に一人一人の大法弟子の持っている時間や力も同じく大法資源の一部分であるのではありませんか? しかし、多くの場合、我々は意識的にまたは無意識的にそれらを自分の能力、自分の私有財産と見なしてしまい、内心からそれが衆生を救い済度する責任と使命を全うするために、大法より賦与されたものだと認識していないようです。

 我々は全体で協力する時にトラブルが起こり、それによりしこりが生じた場合、そして自分の才能にうぬぼれた場合、つまり自己に執着した場合、自分と大法の関係を根本的に正しく置いていないのではありませんか? またそれにより、大法全体の資源という役割を最大限に生かすことができなくなるのではないでしょうか? まだ私的な要素が作用しているのではありませんか?

 このことに関して、師父はすでに注意してくださっておられるのです「この方面において能力のある人がおり、あの方面において能力のある人がいますが、これでうぬぼれてはいけません。私にこれほどの腕があるなど云々しますが、それは法があなたに与えた能力です! あなたはそれほどの能力に到達しなければいけないものです。法を正すことはあなたの智慧がそこまで達することを必要としているため、自分がいかに有能かと思わないでください」(『2003年旧正月十五日米国西部法会での説法』)。

 個人の会得ですが、不適当なところがありましたら、慈悲なるご指摘をお願いします。

 2008年1月19日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2008/1/15/170394.html