日本明慧
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パパはどこに行ったの?(写真) (明慧日本)私は呂明慧と言います。今年で10歳です。ハルビンに住んでいましたが、今はホームレスになって、しかたなくハルビンを遠く離れ、ある法輪功修煉者の「お婆ちゃん」の家に住んでいます。ママは法輪功を修煉することで刑務所に閉じ込められていて、パパはどこに行ったか知らないのです。
ママのことはよく覚えていないのです。物心がついてからずっとパパと一緒に住んでいました。パパは私のことを「慧ちゃん」と呼んでいたのですが、パパに呼ばれた「慧ちゃん」をもうしばらく聞いていません。 7歳の頃、ある日、パパは朝出かけたきり、2度と家に帰ってきませんでした。一日中、私は一人で家にいました。夜、ベッドで寝ていた時、電話のベルで起こされました。私は「パパ、電話だよ」と呼びましたが、誰も電話を受け取ってくれませんでした。またひとしきり鳴った電話のベルが私を起こしました。私は、また「パパ、電話だよ」と呼びましたが、相変わらず答えはありませんでした。そして夜が明けた時、パパの友達が私を迎えに来ました。それから、私は2度とパパに会いませんでした。一晩だけで彼は私を捨ててしまいました。 或る日、お婆ちゃんの友達の家で法輪功のチラシを見かけました。中にパパと同じ名前の叔父さんが労働教養所で迫害によって死んだ記事がありました。お婆ちゃんの家に戻ると、私は「写真はないけど、名前と年齢が私のパパに似ている。チラシの叔父さんは私のパパなの?」とお婆ちゃんに聞きました。「慧ちゃんのパパじゃない」と答えられても、私は「信じない」と言いました。後になって、お婆ちゃんは「慧ちゃん、もし彼があなたのパパだったらどうするの?」と聞きました。確かに、パパだったらどうすればいいのか、私に何ができるのか、私は「パパだったとしても、私もしようがない」と答えました。 私はとてもパパに会いたいのです。パパは何も言わないまま私を捨てていってしまいました。「パパ、どこに行ったの? 帰ってきて、パパ、私を捨てないで!・・・」。 付録:呂明慧さんの両親の情報 呂蒙新さん(父親)は、1963年に生まれ、東北林業大学の講師である。1999年10月10日に法輪功の迫害を陳情しに上京したが、逮捕され、ハルビン動力公安分局に不法に拘禁された。16カ月後、動力裁判所から不法に3年の判決を言い渡された。不法に拘禁された期間中、呂さんは刑務所の規定を暗唱しなかったため、警官が受刑者の頭目に指示しひどく殴打された。 また、十分な食事も与えてもらえず、家族から送られてきた食べ物などは全部受刑者らに奪われてしまった。飢えにより痩せこけて骨と皮ばかりになってしまい、その上、刑務所の極めて汚い環境の中で、全身が疥癬まみれになった。 2001年3月31日、ハルビン刑務所に移送された後、断食で迫害に抗議したため、強引に灌食を強いられた。 2005年4月3日朝、呂さんはハルビン政府広場の江沢民の写真を外したため、武装警察に逮捕された。不法に動力区留置場に拘禁された後、2年の不法な判決を言い渡された。刑務所で肺炎と診断された呂さんは、刑務所の入所を拒否された。 2006年2月27日、呂さんは万家労働教養所で残虐な迫害により死亡した。死因は臓器の機能不全だった。 徐文英さん(母親)は、呂蒙新さんが1回目に強制連行された時、動力分局の警官に追跡された為、3歳未満の呂明慧さんを連れて、身を落ち着ける処を失い困難な生活を余儀なくされた。その後、強制連行され、不法な判決を受けた。現在、ハルビン女子刑務所に拘禁されている。明慧ネットの報道によると、徐さんは刑務所で受刑者から非人道的な虐待を受けているという。 (注:法輪功修煉者を迫害している主要な責任者らの情報は中国語のページを参照) 2008年1月19日 (中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2008/1/18/170520.html) |
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