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人心を放下し全体に協力して、芸術祭のチケット販売促進をよく成し遂げよう


 文/北アメリカ大法弟子

(明慧日本)師父は自ら芸術祭という形で衆生を救い済度しておられますが、我々は全力を上げて師父の要求に圓容しなければなりません。芸術祭の公演がスタートして暫く経ちましたが、今年の公演が既に終わった都市もあれば、公演を控え、チケットの販売促進を急いでいる都市もあります。この間、多くの同修は自分の会得、特に思い通りにいかないところについて交流しました。芸術祭は他のプロジェクトと違って、チケットを売らなければならないという融通性の無い目標があるという同修もいれば、今度の販売促進については、具体的なやり方を師父から全く教えていただいていませんが、我々は法に則ってよく悟らなければならないという同修もいるのです。次に上げますのは同修の皆さんの会得をまとめた上で、自分の認識も述べさせていただき、少しでも御参考になればと思っています。

 常人の観念を変える

 芸術祭のチケットの枚数が多いとか、時間がきついとかいう言い方をよく耳にしますが、こんな短い間でこんなに多くのチケットを売るのはとてもできない(例えば、ニューヨークで)と思っている同修がいるらしいです。確かに、常人の立場から見れば、それは非常に難しいことです。鑑賞したことのある観衆はその公演がトップクラスのものだと分かっていますが、まだ常人社会で知名度を広めていないため、本当にこのことが分かっている常人はまだまだ少ないのです。それに、中国共産党がまだ誹謗中傷をしており、我々が広範囲にわたって宣伝するお金もなく、日ごろは仕事のために出勤する必要があり、チケットの販売促進に使う時間が限られている同修(また他のプロジェクトをやらなければならない)も多いので、常人の目から見れば、それは実に難しいことなのです。

 しかし、このように決められた以上、「この事は必ず成功を収められる」ということを私たちは当然知っているはずです。このことは修煉であり、人を救うことであり、常人の理を超えることで、常人の理に制約されないのです。しかし、大事なのは、我々が常人の観念を捨てて、修煉者の正念と慈悲を持って対処することができるかどうかなのです。

 先ずみんなで考えてみましょう。芸術祭のチケットは本当に多いのでしょうか? 我々は既に知っているように、この芸術祭を行う目的は人を救うことであり、世の人々は皆大法を待っており、すべての人々は皆我々に救い済度される衆生であり、我々が販売促進する相手は全世界の衆生なのです。こういう意味からして、芸術祭のチケットは多くありません。特に人々を救い済度しなければならない時間がとても差し迫っており、我々は旧勢力と「人を奪い合っている」のです。「この世界に来た人は皆、皆さんによって救われるのを待っています!」(『米国首都での説法』)。ですから、チケットがとても多いという考えを我々が持ってはいけないと、私は思っています。

 時間がきついという問題に関しては、我々は法の学習を通して既に佛法神通の威力を分かっているはずです。佛法神通は全く常人のこの空間での時間に制約される事がなく、瞬く間に一つの事柄を完成させる事ができるのです。しかし、我々が純粋で清らかな心理状態を保たなければ、法の威力を完全に表すことが出来ないのです。ですから、結果が悪かったのは、別に法の威力が足りないのではなくて、我々がうまくやり遂げなかったからです。今度初めて芸術祭の公演を行う都市もありますが、今の結果から見れば、初めて行うかどうかということもチケットの販売促進にさほど影響していないようです。(師父が法を正されることは宇宙で今まで初めてのことなのですが)成功できるかどうかはあくまでも我々次第です。

 そのことは師と法を信じる度合いの問題、法理に対する認識の問題、お互いの協力の問題と関わっているのですが、勿論それらは皆修煉に関わる問題なのです。大事なのは我々が常人の考えを変え、修煉者の立場に立って対処し、修煉者の心理状態で事柄を行うことです。

 心を使う程度の問題

 常人の行った公演は常人という次元にあるので、常人社会のやり方で行えばいいのです。それに対して、神韻芸術祭は完全に常人の次元での娯楽ではなく、その目的は人を救い済度するところにあり、根本的に言えば、我々はただ常人の形を借りているに過ぎません。ですから、一部の地区の同修は常人のありとあらゆる方法を使い尽くしたのに、どうして思い通りの結果にならなかったのだろうかと戸惑っているようですが、それは常人の手段に頼りすぎて、常人が仕事をするように対処してしまったからではないかと私は思っています。

 今では多くの同修が悟るようになりましたが、神韻芸術祭は世の中の一大事であり、その影響力が今常人社会でどんどん広がっていっているのです。ですから、我々は真剣に芸術祭に対処しなければなりません。この目的が人を救い済度することである以上、我々は本当に気を使って、慈悲と善なる念を持ち、人を救い済度しようとする心が動かなければなりません。

 今確かにチケットの販売促進には、一部の同修はまだ十分に気を使っていないのです。つまり自分とはあまり関係がない、或いはただ「参与する」「手伝う」という態度で対処しており、あまり責任感を持っていないのです。ですから、そのことを本当に自分のことのように思い、責任を持って、たとえ直接参与できなくても正念を持って加持しなければなりません。人を救い済度することは我々の責務であり、我々の行った全てはつまるところ我々自分自身のために行っているのであり、十分に心を使わないと、うまくやり遂げられないのです。法は厳粛なものであり、《「煉功するその人が功を得る」『転法輪』》ごまかしたり、お茶を濁したりしたら、衆生を救い済度するという効果が収められないのです。

 本当に気を使い、正念を持って正しく行うと、法の威力が現れるのです。明慧ネットでこういう文章が掲載されました。先週月曜日、よその地区からニューヨークへ販売促進の手伝いに行っている女性の同修は、ニューヨークのある大手会社へセールスに行きました。受付が入らせてくれなので、彼女は受付に真相を伝えるようにしました。そうすると、中に入らせてくれましたが、次のドアに入ろうとする時また受付に止められました。そうすると、彼女はまたその人に真相を伝えました。最後には社長に会いましたが、時間は10分しかないから、話したいことを早く話しなさいと言われました。そこで、その同修は真相を伝え始めましたが、一気に3時間も話し、その結果、真相が分かった社長は600枚の団体チケットを注文したのです。

 気を使う程度に関しては、またもう一つ気付きにくい問題があります。それは自分の好みに執着しないことです。

 我々が自分の担当した分を努力してやり遂げるのは当たり前のことですが、自分が努力したことに浸ってはいけません。こんな大規模な芸術祭を成功させるには、ただ何人かの協調責任者や佛学会がやるだけでいいというようなことではありません。今年の地元のチケット販売促進の過程を振り返ってみると、私はただ自分の担当したことを頑張って行っただけで、全体の協調や協力に更に大きな作用を果たさなかったことに気付きました。

 私の理解ですが、今古い学習者にとっては、ただ自分の担当すべき分をよくやり遂げるだけではなく、それ以外にも協調責任者としての役割を果たさなければなりません。即ち、自分が法を実証することに責任を負うと同時に、また全体の法を正すことにも責任を負わなければならず、個人の向上も全体としての昇華も重視しなければならないのです。もし自分が法を正すことだけに気を使うのならば、まだ完全に自我を放下したとは言えず、利己的な部分がまだ残っていると思います。

 そして、他の法を実証するプロジェクトに関しても、同じく気を使う程度で、全体に責任を負うかどうかという問題があるのです。

 協調と全体の協力

 気を使うだけではまだまだ足りません。常人の言葉で言うと、我々は気が揃わなければなりません。それは更に多くの同修と交流する問題、協調と協力し合う問題に関わるのですが、師父は新しい経文『フランス法会へ』のなかで特に「協調すること」と「お互いに協力すること」を取りあげられましたが、我々は本当に自我を放下し、法を実証しなければ、この要求を達成することができないと思います。

 修煉の道を今日まで歩んできて、私たちに対する法の要求もますます高くなってきています。ただ我々は過去と比べてはならず、特に個人の努力や支払った代価に満足してはならず、絶えず向上し、内に向けて自分の問題を探すようにしなければなりません。

 協調と協力に当たっては、意見の対立や、水掛け論になってしまう事がよくありますが、この場合トラブルに巻き込まれないように回避し、めいめいが自分の事を行い、自分が努力したことに満足しがちです。しかし、本当に自我を放下し、全体を形成していないので、全体としてはいい効果を収められないのです。

 またこのような現象がありますが、つまり、法理上、よく協力し合うようにしなければならないということはよく分かっていますが、人の一面でまだ放下できていない執着があるため、形式上お互いに協力しているとはいえ、心に恨みや不満を抱き、まだ本当に師父の要求された「個人がどのように考えていても、心を放下して協力すべきです」(『フランス法会へ』)というようにやり遂げていないのです。

 しかし、このように他の同修や協調責任者に不満や恨みを抱きながら協力するのであれば、実は他の空間ではそのよくないものがまだ存在しており、邪悪に隙に付け入られやすいのです。例えば、ある都市で、ホリデー・ワンダーが終わった後に交流した時、一部の同修は公演の場所の問題でずっと協調責任者に不満を持っていた事が分かりました。つまり、それらの同修は程度は違いますが、不満や恨みを抱きながら、チケットの販売促進に協力していたのです。個体として努力はしているものの、これらの不満を持っているため、全体の力や効果を弱めてしまったのです。

 またその他に、この同修とならお互いに喜んで協力し合えますが、あの同修となら気分が悪くなり、一緒にやりたくないという現象もあります。この文章を書くときに、自分にもこの問題があると気付き、この区別する心を取り除かなければならず、このように選択した上での協力は師父が望まれることではないとはっきり認識するようになりました。

 師父はおっしゃいました。「自分をしっかり修め、さらに衆生も救い済度しなければならず、いずれも重要なことです。すべて重要なことです」、「個人の向上がやはり第一位です」、「個人の修煉をおろそかにしてはいけません。あなたは何を行なっても、真相を伝えるにしても、大法を実証する仕事をするにしても、まず自分を良く修めることを第一位にしてこそ、あなたが行ったことがさらに神聖になります。あなたが大法弟子なので、大法弟子が法を実証することを行なっています」『二〇〇七年ニューヨーク法会での説法』

 本当によく協力し合い、協調できるようにするためには、やはり無条件に内に向けて自分を探すようにしなければなりません。このようにして初めて、純粋で清らかな心理状態で法を実証し、確固たる全体を形成する事ができるのです。

 「三つのこと」を同時によく行うようにしなければならない

 師父は説法の中で「三つのこと」を同時によく行うようにしなければならないとはっきりと教えてくださいました。しかし、時間もきついし、圧力も大きいという現実を前にして、人の観念に左右され、物事を行うことだけに専念し、法を学ぶ時間を減らし、更に殆ど煉功しなくなる同修がいるようです。確かに我々が法を実証し、衆生を救い済度することを行う時に効果がどうであるかを考えなければなりません。忙しそうに見えますが、実際あまりいい効果を収めていない、こういう現象もよくあるのです。

 師父は『転法輪』の中で「煉功の時にあれこれと妨害が現われてきた場合、まず自分自身から原因を捜し、まだ何か捨てなければならないものがあるのではないかと考えるべきです」とおっしゃいましたが、我々はトラブルに遭ったり、法を実証する時に妨害された時、そして、チケットの販売促進がうまく進まない時、ただ「物事を行う」ことに工夫を凝らすのではなく、本当に落ち着いて内に向けて自分を探すようにしなければならないと私は思っています。

 不適当なところがありましたら、慈悲なる御指摘をお願いします。

 2008年1月20日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2008/1/16/170400.html