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法を正す修煉に対する少しの認識


 文/湖北省の大法弟子

(明慧日本)師父の法を正す過程の後について従い今日まで参りましたが、師父は弟子である私のためにたくさん心配していただきました。今日、自分はまだたくさん欠点があり、師父にご報告するほどの修煉の成果はありませんでしたが、今までいろいろご心配をかけてしまった師父に一言ご報告させていただきます。正しくないところがありましたら、同修の皆さんに慈悲なるご指摘をどうぞよろしくお願いします。

 1999年に迫害が始まった頃、昔の予言に書かれていたことですが、大法弟子は「投獄を免れない」という内容を読んだことがあります。その時、このことに対してどうしようもなく思いました。このようなことは免れられないのでしょうか。監獄に行かなくてはならないのでしょうか。もし何千何万人が投獄されたら、何千何万の家族にどれだけの災難をもたらすことになるのでしょうか。社会の様々な階層で大法弟子が修煉しているので、これらの様々な階層にも巨大な損失をもたらすことになるのでしょう。そして、修煉の道を歩んだばかりの新しい学習者はこれを見て恐れてしまい、修煉をやめてしまう、修煉しようとする人も恐れて、修煉しなくなり、更に多くの人も偽造の嘘を信じ込み、大法と大法弟子を敵視し、淘汰されることになるのではないか。もし大法弟子は皆監獄に拘禁されたら、誰が世の人々に真相を伝えるのか。このようにいろいろ考えました。

 後で、師父の経文「理性」を学んでから、分かるようになりました。師父は「法を実証するため、拘留所に入ったり、強制労働をさせられたり、求刑されることこそ、最も良い修煉だと言っている学習者がいます。学習者の皆さん、そういうことではないのです。表に出て様々な方法で法を実証することは偉大なる行為ですが、それは決して邪悪によって、つかまえられなければならない、ということではありません。もし、そうであるならば、なぜ、表に出た学習者は陳情の中で、逮捕されたり、拘束されたり、強制労働させられたり、求刑されたすべての無罪の学習者を釈放するよう、なおも要求しているのでしょうか?」とおっしゃいました。この経文を学んでから、予言の中で話した「投獄を免れない」ことは師父によって否定されたと分かりました。主動的に邪悪に捕まえられたり、強制連行されたりしてはいけないと分かりました。

 ある日、大法を実証するために出かけた時、邪悪に証拠を握られてしまい(実は証拠という考えも正しくない)、まるですぐ邪悪に捕まれてしまうに思い込み、とても緊張した状態でした。私は家を出てどこかへ逃げようと思いました。とりあえず、家を出る前に、経験のある学習者と切磋琢磨しようと思って、彼のところを訪れました。すると彼にそれ(私の思い)は勝手の思い込みだ、あなたのために我々も発正念をするから、あなたも家でたくさん法を学び、多く発正念をして、家を出ないようにと言われました。私は繰り返し『転法輪』の中の説法「あなたが真の修煉者であれば、われわれの法輪が守ってくれます。わたしは根を宇宙に下ろしているので、あなたを動かせる人がいれば、このわたしをも動かすことができることになり、はっきり言って、その人はこの宇宙を動かすことができることになります。」を読み、だんだん自信を持つようになりました。私は法を実証することを実行しました。それは最も正しいことであり、邪悪の迫害は絶対に許しません。もし止むを得ない事情があったら、邪悪に捕まえられないようにどこかへ一時避けるのも一つの方法です。そうすると、また法を実証することを実行することができます。しかし、もし避けることなく、家族や職場に消極的な影響を与えないようにすれば、それはもっと良いのではないのでしょうか。そこで、私は数日間引き続き大量に法を学び、正念を発し、それに同修たちが手伝ってくれたおかげで、邪悪が取り除かれ、私は安定した修煉の環境を保つことができたのです。

 もう一つ、利己的か他人の利益のためなのかについての認識を述べたいと思います。迫害に反対する最初の数年間、師と法と固く信じし、修煉する意志が揺らがなければ良く修めたことになると認識していました。師父が絶えず法理を教えてくださるに従って、私の認識もだんだん深くなりました。修煉する意志が揺らがないのは間違いではありませんが、自分の修煉だけ気にかけ、他人のことを全然かまわないと思うのはやはり利己心です。それに対して、親戚や友人を救いたい、常人を救いたいと思えば、それは他人のために思う心です。このように心のキャパシティーを広めました。そして、もし我々を迫害する常人を救おうとすれば、その心はもっと高尚であり、更に、常人に迫害されないように、彼らが法輪功を迫害したため犯罪することのないようにすれば、それはもっと大きな慈悲心と言えるではないでしょうか。それから、たとえ捕まえられ、迫害されることが無くても、もしそれは自分を守る発想からの行為であれば、やはり利己心があるのであり、それに対し、法を実証することを行うとき、自分と他人の安全を考えて、迫害されないようにすれば、それは理性的で、成熟した表現ではないでしょうか。

 このような場合、自分の安全を考えたとはいえ、全体という立場に立ち、自分が安全だと、他人と全体に損失をもたらすことはないと考えているので、それもやはり他人のためを思う心です。もし全体で法を実証することを行うとき、全体の最高・最大の効果を果たすために、自分が良いと思っている提案やアイデアを持ち続けることではなく、全般的に考え、全体に圓容するならば、それは無私であり、神の状態なのです。もし一人の人が更に大きくて高い宇宙天体の情勢に対応し、一人の人を救い済度したら、その天体にある数え切れない衆生を救うことになったと思いやり、そして、我々がそれぞれ各自の分野で修煉するのは巨大で遥かに離れている異なる宇宙のすべての神と衆生を認めることになり、「法を正すことは、全宇宙の生命を正しており、神が残したすべての原始的なものをできるだけ救おうとしています。」(「ロサンゼルス市での説法」)このすべては実は師父が救い済度されておられると思い付いたら、我々は自分の仕事をよくこなし、自分を良く修めるようにしなければならないと思うはずでしょう。見た目では我々は仕事をして、給料をもらい、それは自分の生活のためのように思われますが、実は我々は重大な責任を背負っており、よくこなさなければだめなのです。もし我々の歩んだ一歩一歩は未来を切り開くことになり、未来に異なる時期で現れる異なる状況の参照を残しているということを常に考えていれば、我々の視野もただ目の前の「他人のために思う」ことに留まらないことでしょう。師父によって更新された新しい宇宙の特性は完全に他人のために思っているのであり、完全に他人のために考え、こうして初めて不滅になれるのです。それに対し、古い宇宙の特性は利己的であり、利己的である以上、不足があり、疲れたり廃退したりして、最後は爆発によって壊滅され、新たに新しい宇宙が生まれ、このように循環しているのです。

 私たちは師父の法を正す要求に基づいて修めたり、実行したりすれば、必ず古い宇宙の私(し)のためにという特性を取り除き、その代わりに、他人のためにという新しい宇宙の基準に符合するような偉大な覚者になるまで修め、成就することが出来るに違いありません。このような新しい宇宙は永遠に不滅になれるのです。お互いに誰もが他人のことを先に考えており、そして誰もがこのような他人を先に考えると言う環境の中で受益している。これは私が自分の次元で悟った大法の圓容という法理です。

 古い宇宙の腐った生命や要素は利己的な立場から考え、法を正すことを妨害し、たくさんの生命を犠牲にしても惜しまないのです。今法を正すことは終わりに近づきましたが、大法への迫害はまだ続いており、旧勢力が衆生を壊滅すると同時に、自分をも壊滅しています。だから、私たちは師父の要求された通りに、自己を手放し、三つのことを良く行い、正しい念と正しい行いをして自分の一番良い方法を出して、直ちにこの迫害を終わらせ、更に多くの衆生を救い済度するようにしなければなりません。

 2008年2月16日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2008/2/9/172093.html