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協力し合い、圓容し合うべきである


 文/中国山東省大法弟子 聖潔

(明慧日本)私と夫と両親は皆修煉者です。地元の資料の供給とコンピューターに関する技術をやっているので、お互いの協力はとりわけ重要なのです。師父の『法輪大法—オーストラリアの修煉者に対して法を説く』を学んでから、私は恥ずかしくてたまりません。師父は常に私たちのために気を使っておられるのです。確かに、よく協力できないことがもたらした教訓はたくさんあります。大法弟子は圓容する全体であり、大法の仕事をする時もいつも自己を修め、大法をもって自分を正すようにしなければなりません。このようにしてはじめて我々が本当に金剛不壊になれるのです。

 一、言い争うか、圓容するか

 長期に亘り身に付いた習慣のせいか、父親はとても頑固で、何か意見を言われると、いつも色々理由を盾に、受け入れようとせず、「指摘されるとすぐ怒ってしまう」場合がとても多いのです。こんな時、私と夫はだいたい譲りもせず、自分の意見を言い張っていますが、結局はいつもどちらもいい気になれませんでした。その時、私たちは皆内に向けて探すのではなく、常人の理を掴んで離さず、なぜ相手は内に向けて探そうとしないのかと不満に思ってしまったのです。

 この件について、私は夫と交流したことがありますが、その結果、父親の自己を実証する心があまりにも強くて、それは党文化に毒害された要素の影響だという結論を出しました。夫もまたこのことに関しての交流文章を書いて投稿しました。しかし、発表されませんでした。このことにあまりにも執着しすぎたからではないかと思いました。後で、我々3人で交流してみました。父親も自分にこの執着があると認めています。それを聞くと、私はちゃんと分かっているのに、なぜ直そうとしないかと思って、とても父親の行動を理解できませんでした。

 それに、私が焦れば焦るほど、父親は私の前でこの執着心が表れるようになり、最後に皆はこのことを避ける始末になりました。実はまた別の「論争するのを恐れる」心が生じたのです。父親にこの不足があるとわかっているのに、私と夫は押し付け合い、相手がこのことを父親に指摘するのを望んでいるのです。それはなぜでしょうか。他でもなく、自分が傷つけられるのを恐れているからではありませんか。父親に反論して、逆に自分の不足を指摘されるのを恐れて、「聞きづらい話は聞きたくない心」を持っているからではありませんか。しかし、私たちは皆この問題を正視していませんでした。後で分かったのですが、このように問題を避けるのも正しくないのです。手伝い合い、注意し合うようにしなければ、人為的に我々の全体に隔たりを作ることになるのではありませんか。

 師父の『法輪大法—オーストラリアの修煉者に対して法を説く』を学んでから、私ははっと悟りました。確かに、私はなぜこんなにも父親の不足を指摘することに執着するのでしょうか。なぜどうして父親を自分の意見に従うようにしたいのでしょうか。なぜこんな時に内に向けて探さないのでしょうか。

 他人の不足を見かけた時、先ず内に向けて探し、自分に何か執着心があるのではないかと考えるべきです。自分の言い出した意見を相手が受け入れないと、やはり自分の善なる心が足りないとか、自分の態度が硬いとかいうように内に向けて探さなければなりません。そして、もし本当に同修に対して責任を負うのならば、言い出す前に先ず自分の話が相手を傷つけないように気をつけなければなりません。

 ニ、協力することであり、分業することではない

 私と夫は皆常人の仕事を持っており、時間はそんなに豊かではありません。技術面のことにおいては、大体夫が担当していますが、技術の要求のないことにおいては、大体私がやっています。それから誰がやってもいいこともあります。しかし、私は怠ける心が多いため、よく夫に「これはあなたの仕事だ、私と関係がない」と不満を言われています。私は口先では反論しませんが、やはりいい気になれませんでした。最後はお互いに頼りあうことになり、誰もやらなくなり、後で父親に聞かれると、また責任を押し付け合い、相手のせいにしていたことがあります。例えば、或る時、私と夫はお互いに頼りあい、師父の新しい経文をダウンロードすることを忘れてしまいました。後で父親に聞かれてから、やっと補ったのです。

 それから、私たちは協調のことに不満を持っており、簡単なことなら、同修にやってもらえばいい、別に何もかも皆私たちがやる必要はないと思っていました。それから、父親はコンピューターが分からないため、こんなちっぽけなことになぜこんなに時間を使っているのかと思い、私たちのことを理解してくれないこともあります。結局この間、プリンターが壊れて、仕方なく新しいのに取り替えました。しかし、私たちはやはりよく悟れませんでした。

 後になって、私は常人の仕事において引き続きトラブルが起こり、何度も他人が犯した間違いなのに、自分が上司に責められました。私は師父の説法「煉功の時にあれこれと妨害が現われてきた場合、まず自分自身から原因を捜し、まだ何か捨てなければならないものがあるのではないかと考えるべきです」(『転法輪』)を思い出し、やっとよく自分を探さなければならないと思うようになりました。ある日、私は急に分かったのですが、それは私たちが良く協力しなかったからです。私たちには確かに分業がありますが、しかし、それはよく協力し合うためであり、われわれは往々にして本末転倒してしまいました。全体に責任を負うために、私たちは善意を持って自分の意見を言い出すべきです。たとえ相手が受け入れなくても、自分の意見を固持してはいけません。私たちはお互いに協力し合い補い合って、初めて大法の仕事を円満に成し遂げられ、圓容不壊の全体を形成することが出来るのです。

 ここで、同修の皆さんに私と同じような間違いを起こさないように気をつけてほしいです。我々は圓容不壊の全体であり、お互いに協力し合い、圓容し合うべきだということをよく覚えておきましょう。

 2008年2月19日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2008/2/1/171474.html
(英語:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2008/2/16/94398.html