■日本明慧 http://jp.minghui.org/2008/02/20/mh225696.html 



大法弟子の間に起こるトラブルについて

 文/カナダ大法弟子

(明慧日本)大法の福音が天下に伝えられ、師の正法を手伝い、幸運にも法を得てこの時代の目撃者となる大法弟子は喜んでいます。法を学び、法を実証することは、今の大法弟子の使命です。世の中のいろいろな試練を受け、旧勢力のたびたびの妨害を突き破って、大法弟子は今日まで歩み、ますます成熟して、いろいろなトラブルと心性の面での出来事に対してますます冷静に対処できるようになりました。

 しかし、たくさんの大法弟子は常人とのトラブルと私怨に直面したときには、笑って対処し、恩讐を一掃し、過去の恨みを忘れることができますが,大法を修煉する弟子との間のトラブルに直面すると、些細で不愉快な事をずっと引きずり、甚だしきに至っては、時に理性を失って毒舌を吐き、きつい言葉を使い自分のやり方こそ大法に合っているのだと弁解し、負った犠牲とつらい思いを吐露し、直接或いは間接的に相手の非を指摘するのです。

 このような関を乗り越え、心性の試練に直面しているとき,トラブルを完全に整理することは難しいかも知れませんが、そうでなければ関を乗り越えることはできません。傍観する第三者として考えるならば、この事は私達に漏れがあると啓発してくれていると思わなければなりません。

 千年の輪廻の中で、私達は三界の中で彷徨よい、この時空に制約され、この時空が要求している心性の基準の中にいるのです。師父が法を伝えてくださり、私達にその中で制約されている要素、変転、浮沈、喜怒哀楽などを克服するよう求められました。それは私達を大智大慧の生命に浄化し、六道輪廻に束縛される絆を断ち切らせるためなのです。

 師父が私達に大法を授け、またすべての時空と天地の神々を率いて、これほど広大な時空を創造し、大法弟子を向上させ、浄化させる最も良い機会を与えられました。大法弟子の間に起きるいかなるトラブルも、すべて大法にもとづき、大法を実証し、自己を修煉するよいチャンスです。常に大法を以って自分を律することこそ、まさに大法の無形の剣が様々な人心と情を断ち切るのではないでしょうか?

 他人からみれば、対立する同修間のトラブルはとても簡単そうに見え、彼らがどうして関を乗り越えられないのかと戸惑う同修がいます。和解させてあげようとすれば、余計に問題を大きくし、ますます複雑になり、更に多くの人がこのトラブルに巻き込まれて、いっそう訳が分からなくなるのです。そして、人に「修煉者なのに、常人にさえ及ばない」と言われ、泣き面にハチの状態になるのです。

 大法弟子の間に起きるトラブルについて、同修が原因を分析して、次のようにまとめました。

 1.あまりに自我に固執しすぎて、情に導かれ、修煉が向上していない。

 2.旧勢力に利用されている。旧勢力は大法弟子が良くない状態のときに、隙に付け入り大法弟子の足を引っ張ろうとしている。

 3.大法弟子は輪廻転生の間に生じたトラブルを善解することが必要。もし大法弟子が互いに大きな縁がある生命なら、生前の輪廻転生でたくさんの数え切れない縁を結んでおり、その中には相互の恩讐も存在する。そのために今の私達が修煉する時に、前世の因縁を大法で解き、恨みを溶解させなければならない。自分が同修に借りがあれば、この世で、同修に「傷つけられる」かもしれず、他人が前世で自分を傷つけたら、今世で同修を傷つけてしまうのである。どんな情況にあっても、我慢、誠実、善良、寛容という気持ちで、相手の立場に立って考えることこそトラブルを解決する基本である。

 4.修煉の過程で按排された関門。異なった意見・見解は、まさに師父が私達の修煉の向上のために按排された重要な関であり、些細な事も師父は漏れなく見ておられ、修煉の記録に明記されるのである。すべての機会は二度となく、慎重にこれらのトラブルに直面するように師父に期待されている。

 大法弟子の間にトラブルが起きたとき、最も喜ぶのは大法弟子に悟りを開いて欲しくない旧勢力です。彼らは大法弟子の人心が揺れ動くのを見ると嬉しくて仕方がないのです。大法弟子が互いを非難する時、本人の心性は落ち、功も落ちて、大法弟子の全体にも及び、全体の協調に影響を与え、その地区の大法弟子の法力も大きく衰えるのです。もちろん、邪党はおおいに喜びスパイに行かせてだまそうと金を使うでしょう。大法弟子の内部にトラブルが起きれば、かれらは最高だと思うのです。大法弟子の間にトラブルが起きれば、相手は喜び、身内は心を痛めるのです。

 みんなの心、力を一カ所にまとめれば、その事自体は予想外の結果を生じるかもしれないのです。つらい思いをしたかどうかは、師父ははっきり見ておられ、大法から見ると、出来ないことのない大法の前では、すべての生命の思考と恩讐は小さい事なのです。たとえ大きくても、大法に解決できないことがあるでしょうか? 修煉の間のトラブルは、弁解と論争により解決するものではありません。

 そのときに、初めて、あの歌が鳴り響いてくるのです。

 生命はもともと天上の仙人であり、

 人生の成功と失敗は過ぎ去った煙

 是非は本来前世の恩讐であり、

 法を得て謎を解き天に上がる

 2008年2月20日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2008/2/5/171767.html

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