日本明慧
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同修間の交流について


 文/大陸の大法弟子

(日本明慧)個人的な理解ですが、同修間の交流は、法に則り自分の理解が昇華して得たものでしか本当の意味での効果はありません。修煉体験交流会で発表される体験文はすべて他の同修により校正されたものであり、また、明慧ネットに発表された文章も同じく編集部の同修に校正、編集されたものです。このような配慮こそがプラスの交流効果をもたらします。さもなければ、個人の要素が多過ぎてプラスにならない部分は、かえって、同修に対し悪影響を与えます。今、一部の同修間にみられるような、誰かの是非を論じるような交流ではなく、真に、内に向かって探し、大法の異なるレベルの要求に達するべきです。

 ある同修は交流する時いつも、間違ったところを指摘してくださいと言います。表面から見れば、自分の修煉の不足を指摘して貰おうとしているのですが、深く考えれば外部の力を借りたいということなのです。まず自分の内面を真に変化させるべきであり、執着を取り除くことこそが修煉なのです。もし自分が本当に法の面で理解していなければ、たとえ誰かに指摘され直したとしても、それは表面上のことなのです。

 私個人の理解では、正法時期の大法弟子は、もっと良く真相を伝えるにはどうすればよいのか、またどうしたら、さらに多くの衆生を済度することができるのかを交流すべきです。同修の交流は、彼(彼女)の個人の見解であると同時に修煉レベルの表れです。修煉のレベルや状態はみな異なっているため、毎回の交流もすべて同じ認識に達することができるものではありません。

 個人の修煉状態を見るだけでなく、みんながひとつの全体だと思って、相手の不足を正念で加持し、あるいは発正念を送りましょう。

 偏見をもって視るべきではなく、また自分が見たもので評価するべきでもなく、すべての同修の環境と心理状態は他人に推測できるものではありません。衆生を済度することに全力をつくすべきです。全てが大法を実証する中ですこしずつ高まり、さらに同修全体も高まるのです。

 意見を主張しすぎることは、自我を実証する現れであって口を修めることにはならず、個人の見解は、往々にして、法に対してあまり理解できていない同修に悪影響を与えるのです。

 2008年3月3日

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2008/2/18/172585.html