信じる心と恐れる心
文/大陸の大法弟子
(明慧日本)私は『転法輪』の344ページの、「忍び難きは忍びうる。行い難きも行いうる」という部分を暗記して学ぶことによって、修煉者がぶつかるすべての難関は、どのように私たちが心を置くか、師父と法をどのぐらい信じるかの程度により、修煉の道で常人の念から神の念に変わる一つの過程に過ぎないと思います。その過程であなたが信じるかどうかを見ているのです。正念が出ると見せかけはすぐなくなり、「柳暗花明又一村」になるのです。さもなければ、あなたは見分けできないと、目の前のすべてを真実だと思ってしまい、これはただの常人の念頭にしかすぎず、その考えによってぶつかった難関は事実になってしまいます。人心で物事を見ると変化はしないのですが、神様が見ればすべて変化するのです。「信じる心と恐れる心」も「信じる心」が大きくなると恐れる心が小さくなり、完全に100%信じると恐れる心も100%なくなるのです。それならば信じる心はどこから来るのでしょうか? それは大法から来て、衆生を救うことから来るのです。三つのことをやるうちに徐々に現れて来るのです。
第31期「明慧週刊」によると、1人の法輪功修煉者が2人の女学生に真相を伝えた際に、その学生が「あなたは法輪功だ」と言って走って派出所に通報に行くと、これは人の考えでは非常に危ないことで、早くその場を離れなければいけません。しかし、その修煉者は黙って顔色も変えず心にはただ一つの念しかなく、それは師父の希望通りに人を救う心で彼らを見続けて自分がやるべきことをやれば、その結果は何も発生していないのです。師父は次のように言われました。「真相を伝え衆生を救い済度することに旧勢力はあえて反対できません。肝心なのは、何かをする時の心構えにそれらに付け入る隙を与えないようにすることです」(『2002年ボストン法会での説法』)。
「信じる心と恐れる心」は二つの種類の物質であり、信じる心の比例が多くなると恐れる心が少なくなり、完全に取り除くと徹底的に信じることができるのです。要するに、師父がお話しされた通りに「瓶(びん)の中に汚い物を一杯入れて、蓋(ふた)をしっかり閉めてから、水に投げ入れると、直ちに底まで沈んでしまいます。中の汚い物を出せば出した分だけ瓶が浮き上がってきます。全部出せば、完全に浮き上がってきます」(『転法輪』)。私たちは頑張って三つのことを行ううちに、徐々に「恐れる心」の根本的な執着を捨て、より早く昇華してたくさんの衆生を救うことができるのです。
2008年3月14日
(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2008/3/13/174230.html)
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