■日本明慧 http://jp.minghui.org/2008/03/17/mh184264.html 



明慧ネットを読んで、もっと執着を無くそう

 文/海外大法弟子

(明慧日本)最近明慧ネットに掲載された「心を修め、欲を絶つ」を読んで、とても感慨深く,私も徹底的に自分の色欲を絶つことを決心しました。

 私は早熟で、幼い頃から愛情を描写する小説が好きでした。大学生になって性的なことを知り、同じ女子寮の同級生からエロチックな小説を借りて読んでは身体が反応し、それはずっと去年まで(たぶん11年間程)続きました。大学院の時は、ビデオやウェブサイトでエロチックな画像に接触しました。その頃の私はまだ修煉していませんでした。これらのことは良くないと知りながらも(私は根本的に伝統的な保守タイプです)、見るたびに顔が赤くなり,しかし自分の欲を抑えきれませんでした。

 その後出会った今の夫とは、婚前の交渉こそありませんでしたが他の事はすべてしました。当時私はまだ真に修煉していませんでしたが、ただ「結婚前に絶対交渉はしない」ことだけは堅守しました。幸い大きな罪を犯しませんでしたが、他の行為は修煉者の基準をかけ離れていました。 

 修煉後、師父の関連説法を勉強しましたが,いつも自分はこの中に属さないと排除し、他の誰とも関係を持っておらず、結婚前の夫とも無かったので、師父が指摘されたことには当たらないと思っていましたが、やはりこの事に対して修めなければならず、頭の中にあるエロチックなものを全部一掃すべきだと思いました。しかし時にはエロチックな画像や小説を見ては後悔し、悪いと思いながらも、ずっと改める事が出来ませんでした。 

 だんだん学法が深まるにつれて、改心しようと思い、間違う頻度も少なくなりましたが、完全に無くなってはいませんでした。学法するとき、色欲に誘われるまま、また見たりしては後悔しました。わたしは「師父が指摘したようなところまで落ちていない、ただ見るだけなのだ」と思いました。このように繰り返し、良くなったり悪かったりしました。去年の後半に師父の『2004年米国西部法会での説法 』を勉強し、師父は「色欲は修煉者にとって最も乗り越えがたい関であると私は随分前に既に言いました。常人のこの情にひどく動かされています。これほどのことでさえ、自ら抜け出すことができません」とおっしゃったので、私は「色欲は修煉者にとって最も乗り越えがたい関であること」をしっかり覚えようと思いました。その良くない考えが浮かんであの映像を見たいときに、いつも私は自分に問いかけるのです。「いったい修煉しつづけるのか? 師父は『色欲は修煉者にとって最も乗り越えがたい関である』とおっしゃったのに、もしこの罪を犯したらきっと成就できません。「修煉し、成就したいのなら、このことを戒めなければいけない!」のです。こうして何回か繰り返した後、色欲の心がだんだん薄くなり、汚い物と「自慰」を全部取り除きました。

 実は去年、すでにこの「心を修め、欲を絶つ」があることを知っていたのですが、しかし自分が訳す篇しか読んでおらず、じっくりと読んで自分に照らして考えませんでした。今回読んだ時、私は絶対にこの心を取り除こうと決心しました。たとえば町で美女を見ればやはりよく見てしまうし、スタイルのいい人には目線がついていく等や、ウェブ上の美女、ハンサムな画像などもすべて排除し、本当に一念で大法に従わなければなりません。大法に合わないものは、いかに常人社会で堂々としていても、師父がおっしゃったように「見ても目に入らず、耳があっても聞こうとしません」(『北米第一回法会での説法』)です。

 師父はこの説法の中で、「悪い人とはどういう人なのか、ご存知でしょうか? 悪い人はなぜ悪くなったのでしょうか? 頭の中に悪いことを多く入れられ、身についた悪いことが多すぎて、頭は悪いことでいっぱいです。このような人の行いがどのようなものであっても、悪い人です。これらの悪いことはどこから来たのでしょうか? 自分で聞いたからではありませんか? 何も受け入れず、良くないことを聞かず、見ても目に入らず、耳があっても聞こうとしません。良い人とはどういう人なのでしょうか? 頭の中は良いことでいっぱいです。このような人が良い人です。頭の中が良いことばかりであれば、行ったことも基準に達するのです。人間の行動は皆脳に指揮されているので、もちろん、良いことを行います」(『北米第一回法会での説法』)と教えて頂きました。自分はまだ良いほうだと思っていましたが、実は師父のおっしゃった「悪い人」だったのです。自分の頭の中に悪いことを入れたわけで、これは修煉者の要求と正反対ではないでしょうか? しかも師父には私のためにどれだけ余計に苦心させたのでしょうか!

 私はもうひとつの執着があります。それは韓国ドラマです。神韻祝賀祭を宣伝する多忙な時期にもかかわらず、時間を割いて法を勉強するのではなくその時間を韓国の連続ドラマを観ていました。神韻の公演が韓国に拒否されたニュースを知る2,3日前にも私はそのドラマを観て、ずっとその次の内容はどうだったかと考え、学法もろくにできなくなっていました。当時急にわたしは悟り、これは師父の言われた株を買った人と同じではないでしょうか? 心がその韓国ドラマに引かれ、すでに修煉者の状態と違っているのです。学法などできるでしょうか? 当日私は明慧ネットから「テレビの魔」に関する小冊子を探しだし、一気によみおえて普段好きなすべての常人のドラマを戒め、再び常人の物に自分を汚染されないようにと決心しました。しかし、その2日後に神韻の公演が韓国のKBSシアターに理不尽に契約を破られる事件が発生しました。当時私はとても驚いて後悔しました。「私が観たドラマはすべてKBS社の放送した物で毎日正念を発して神韻の妨害要素を取り除こうとしているのに、実際に公演を阻止したことになっている。私がそれ程執着してドラマをみるのは邪悪にエネルギーを出していたのではないでしょうか」。

 最近このような学法と明慧ネットの交流を見て、私はあることを深く感じました。数日前に明慧ネットに記載した同修の文章中に書かれたことで,より精進している学習者は普段よく明慧ネットを見て同修の交流文をよく読む人であり、あまり明慧ネットの交流文を見なければ、精進状態がよくないのです(元の話ではない、私は調べたが探し出せなかった)。自分のことを思い出しても、精進していない時期は明慧ネットの文章を見たくないときでした。実は明慧ネットは小さい体験交流会のように、私にとってもすべての同修にとっても大事です。私自身の執着心もすべて学法と明慧ネットの交流文を読んでから気が付いて、修めて無くしたのです。国内、海外の弟子も皆さんはよく明慧ネットを見て、学んで比し修して比し、共に精進しましょう。

 文はあまり成熟ではないため、妥当でないところは同修のご叱正をお願いします。

 2008年3月17日

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2008/3/11/174009.html

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