■日本明慧 http://jp.minghui.org/2008/03/20/mh215060.html 



修煉と返本帰真.

 文/米国ロサンゼルスの弟子・マシャー

(明慧日本)同修の目の前に立って、私はとても光栄に思うと同時に私はまだまだ足りないと感じています。私は法輪大法を修煉してすでに1年半になりました。この長くない間に、私の生活に徹底的な変化が現れました。今日皆さんと交流したいのは、私の返本帰真への体験で,私の本来に戻っていくことが私の宿願です。

 旧約聖書の中にあるストーリーでヤコブは天へのぼる梯子の夢をみました。この夢は私の人生の中で現実になりました。私は絵画を専攻する芸術家です。私は自分の構想で、天へのはしごに関係ある絵を描いて、三次元の立体絵画でもたくさん描きました。大法を学んで数週間後、私は驚きながらも確実に、大法は天への梯子であり修煉は宇宙の真理への探求だと分かりました。

 私は執着を取り除くことがこれほど難しいと思いませんでした。その中の道理が分かって、この混迷の宇宙の中ではこれ(修煉)が唯一の出口だと分かったものの、私達はこの謎の中にあまり深く陥ったため、執着心を無くすのも難しいのです。

 修煉の最初、私は執着を取り除くことを怖がっていました。芸術家として、私はとても情に執着していて、情はすべてのようでした。先生が言われたように「常人は情のために生きているものです」(『転法輪』第6講)。自分がこの執着を取り除くことができるように、私はいつも先生の話を思い出して自分に注意しました。「自分のものなら、無くなることはない」(『転法輪』〈第7講)。私がもしすべてを捨てることができるなら、本当の自己を失うことは有り得ず、失った物は私がいらないものだと認識しました。それらを捨てることができて私は慶ぶべきでした。

 私はいつも自分の執着心に悩んでいます。執着がとても大きくて、多分私はこの方面の業力が大きいと思いました。独身女性として、私はとてもロマンチックなことを渇望していますが、しかしいつもこの方面で傷つけられました。私がこれに対して執着すればするほど、業力も大きくなるのです。師父は天目について「天目を開くことを追求している人もいますが、煉功すればするほど開かないのです。 原因は何でしょうか? 本人にも分かりません。それは、天目というものは求めてはいけないもので、求めれば求めるほど得られないためです。 求めれば求めるほど、開かないどころか、かえって天目の内側からあるものが湧き出てきます。 その黒とも白ともつかないものがあなたの天目を塞いでしまいます」。私は迷えば迷うほど、傷ついたと感じて、自分及び周りの世界に対してよくない考えが生じて、 自分を本当の自己と切り離してしまいました。師父は『転法輪』の中で言われました。「黒い物質の多い人は、悟性に影響があるということは言えます。なぜかと言えば、黒い物質は身体のまわりに一つの場を形成し、人間の身体をその真ん中に囲み、真・善・忍という宇宙の特性と切り離してしまうので、このような人はそれによって悟性が悪くなっているかも知れません」。

 私は奥深いところよりこの問題を検討し始めました。師父は、「あなたの空間の場にあるすべてのものは、あなたの大脳の意識によって支配されています。つまり、天目でものを見る時、心が動ずることなく静かに見れば、真実が見えますが、心が少しでも動じれば、見えたものは幻になります。それがつまり『自分の心より生じる魔』のことで、また『心による変(へん)化(げ)』とも呼ばれています。煉功者としての自覚を持っておらず、自分自身を制御できない煉功者もおり、功能を求めたり、小手先の技などに執着したり、甚だしきに至っては他の空間から聞こえてくるものにさえ執着し、それを希求したりしています。こういう人こそ最も自分自身の心から魔が生じやすく、最も堕ちやすいのです」と説法してくださり、私はこの無為の法理を教えてくださった師父に感謝します。私の生命はこれにより再生できました。

 約1年前にある同修は私に、新聞のために映画評論方面の文章を書くことができるかどうか聞きました。私はいいよと答えました。しかし、しばらくして、私はこのプロジェクトに堪能できないとの発想が浮かんできました。私は記者ではない、入力ができない、文章ができない、パソコンも持っていないのです。

 私はこのような考えは執着だ、取り除くべきだと認識しました。私は小さい時に学習障害があり、いつも自分がたくさんの事についてできないと感じていました。今、私は法ができないものはないと分かりました。私の創作と他のレベルはますます向上しており、同時にたくさんの機会をつかって勉強をすることもできました。

 私は新しい事を学ぶ度に、すべて遭った事があるような気がします。私は小さい時にとても文章を書くことが好きでしたが、 以前の間違った観念で(できないと思っていました)、多分業力が私の能力を隠したのです。このことについて、私はこれが帰本帰真の表れで、捨てられた才能を探し当てたと思います。また、新聞に芸術と娯楽の文章を書くことを通じて、私は多くの芸術家を取材する機会があり、新しい角度から真相を説明することが出来ました。

 何カ月か前に私はある会食の機会に映画監督を取材しました。彼も自分の新しい映画のヒロインを誘って来ました。彼らは恋愛中で、まだ秘密の段階です。私達の話は本当に本音を出して進みました。私は彼らに大紀元を紹介しました。彼らもたいへん興味を持ちました。1週間後に、私は再びこの女優に会って、私達の大紀元新聞を渡し、その時に、彼女と映画監督の関係を報道していないと伝えました。彼女はとてもびっくりして、「他の新聞は絶対このようにしない、これこそあなた達の新聞の貴いところです」といいました。

 私は一対一の付き合いが好きです。私の長所を発揮しながら、また私が向上することもできる按排に対して、私は師父に感謝しています。最近私はあるプロデューサーと話をしました。彼は映画監督に関する本を読んでいました。彼は「あなたは映画監督に興味を持っていますか」と私に聴きました、私は「興味を持っているとも言えますが、持っていないとも言えます」と答えました。彼はどんな意味かと質問しました。 私は、修煉者として私は何かに対して執着することをしません。しかし15年前は、私はとても映画監督をなりたかったのです。今私はすでにこの執着がなくなりました、でも私はそれに対して興味を持っているとも言えると解釈しました。この人は即時に私をうけいれました。私はこれも師父の按排で、私に努力させたのだと感じました。

 師父は『転法輪』の中で「無為の状態で修煉し、心性の修煉に専念すれば、次元もどんどん突破していって、得るべきものが得られるはずです」と教えてくださいました。修煉はこのように、執着と観念と業力を取り除いて、師父の慈悲なる済度の下で、返本帰真するのです。

 これは私の修煉のなかの最も神聖なところです。古い自我——利己とうぬぼれで、普通の常人社会のすべてを欲しいという執着をとり除き、法のもとで、求めないで得られるというあたらしい私が現れました。私のたくさんの夢、そして忘れてしまった夢も、すべてすこしずつ現実になったのです。

 私はついに天に昇るはしごを発見しました。

 (2008年米国ロサンゼルスの修煉体験交流会の原稿)

 2008年3月20日

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2008/3/14/174289.html

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