内に向って探すことについて
文/大陸弟子
(明慧日本)大法の前では、私達すべての弟子は小さい存在です。正法の中で、大法が創る新宇宙の中でも、私達大法弟子は、ごく小さい単一の粒子でしかありません。神から見れば、大法弟子はとても偉大な神に成就するのですが、しかし私達の先天的な根基がどれほど大きく、次元がどれほど高いかに関わらず、師父が法を正されなければすべてゼロになり、すべて旧宇宙の崩壊につれて解体してしまいます。個人的な理解では、師父が大法弟子は偉大だといわれたのは、師父の我々に対する激励と慈悲であり、師父はすべての弟子を大事にしておられます。正法の中で私達は謙虚な心を保たなければなりません。このような心を維持すれば、我々は本当のポジションが分かるようになり、同時に私達の自己を実証する、或いは個人の意見を堅持する執着心を無くすことが出来ます。特に協調者あるいはいろんなプロジェクトでよく出来た大法弟子は尚更そういう認識が必要です。
もし正法の中に、師父の前で我々はあるべき謙虚な心と法理に対する明晰な認識がなければ、個人の能力と個人の認識を重視し勝ちになり、そして自分が他の同修の上にいるという気づきにくい心が生じます。この心は最も内に向かって探すことを障害するものです。
多くの同修が法の勉強を通じて一つの理が分かったら、自分がどのようにこの法理に照らして自分の言動を律し、心性を高めるかではなくて、反って、まず思い付くのは、ある同修にこのような執着心があり、彼(彼女)はこの事について向上するべきだと考えることに私は気が付きました。ある同修が学法するグループの中あるいは同修と切磋する時に、内に向かって探すと言うたびに、私達はこういう事情で法と離れている、我々はこうして向上すべきだと話すのです。探す相手は「私」ではなく「私達」になってしまうのです。内に向かって探しているように見えますが、実は他人の不足を探しています。これでは本当に内に向けて探していることにはなりません。それを口実にして外に向かっているのです。また、ある同修はみんなが一緒に切磋し自分の不足を探す時、自分を改める目的ではなく、誰かが自分の不足をたくさん探したらその人がよく修めたと考え、微妙に自分の評価を高めようとする考えが存在しています。実はこのような考えを持っているとき本当の不足は探し当てられません。
私個人は、内に向かって探すのは自分自身が修煉の中の不足を探し、無条件で自分を修め、全体を円容することだと思います。他人を、自分が悟った法理に従わせ自分の考えに協力させることではありません。実はこのような考えはすでに他の同修の上にいるということで、他人は変えても自分は変わりたくないという心でもあります。
これは私個人が内に向かって探す法理についての認識であり、妥当ではないところはご叱正ください。
2008年4月2日
(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2008/3/28/175272.html)
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