日本明慧
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「正」に対する認識.


 文/大法弟子

(明慧日本)最近、私は悪党の迫害に関する真相資料を製作中、いろいろな妨害を受けました。これは、一つは自分の心性に漏れがあり、もう一つは、邪悪は私達が迫害の真相を暴露することを怖がって必死に抵抗しているのだと思います。この間私はずっと自分の心性の原因を探して、認識していなかった人心を発見し、そして次第に法理も明晰にわかるようになりました。しかし、妨害がずっと続いていることに気付きました。発正念をして有効に邪悪を解体し、妨害を排除することができましたが、しかし発正念を停止して資料制作に向うとすぐその邪魔が現れるのです。たとえば資料を作る時、突然停電になるなどがあります。

 私は悩んで焦ってしまいました。どうして自分はこの状態から脱出できないのか? と思いながら心のなかで師父の啓示を求めました。

 つい最近、頭の中に師父の経文『道法』の言葉が浮かんできました。「それでも魔難が尽きることなく長引いていて、もし、心性か行動にその他の問題がないのであれば、きっと邪悪な魔が皆さんの放置していた隙につけ入っているに違いありません。修煉者は、なんといっても常人ではないわけですが、ならば、本性の一面から、なぜ、法を正さないのでしょうか?」。私は急に突然目が覚め、素早く師父のこの経文を読みました。

 繰り返し師父の経文『道法』の勉強を通じて、私は一段と法理の理解を深めました。そして自分が魔難に直面し関門を突破する過程ではいつも消極的な状態が続き、力が全部抜けているように感じました。勝手にやられても仕様がないという考えを意識してしまいました。しかし、このような観念はまさに人間の態様です。偉大で殊勝な神は邪悪に勝手にされることがありえますか? 神は抗争する力がないと思いますか? 神は自分を迫害する邪悪に対して怖がるのですか? 神は消極的に受けて完全に他人の助けを求めるのでしょうか? そうではないのです。人間は自分に弱く、そして迷いの中にいるので、それによって魔難の前では戸惑い、手を挙げてしまい、どうしようもない状態になってしまうのだと思います。偉大なる神はずっと正念が強く、無量な知恵を持って邪悪のトリックを見破ることができ、さらにそれを徹底的に解体する能力があるのです。神はどんな状況でも少しも動揺と躊躇はしません。神は不動不乱なのです。

 ここまで悟ったら、私は突然たくさんの分からない問題がかつ然と解けたように感じました。1999年7月20日以来の迫害を振り返って見て、当時、私達は突然やってきた迫害に直面した時に正念が不足し、対策を失ってしまったのではなかったでしょうか? 現在も多くの同修がまだ監禁されているのは、消極的、意気消沈の要素が働いているからではないでしょうか? この消沈、自信不足の状態は「正」の状態といえるのでしょうか?

 この状態が「正」ではなく、私達は依然として黙々と受けとめているならば、私達はこのような「不正」の状態を黙認していることと変わらないのではないでしょうか? もし私達がこの「不正」を認めたら、私たち自身は自分が「正」と言えるのでしょうか?

 師父は「佛陀は、すなわち宇宙の護衛者です」(『北京国際交流会での説法』)と言われました。私たちが自分自身を見るとき、私達が修めるのはまさに仏陀ではありませんか? 私達は宇宙の真理とすべての「正」の要素を守るべきではないのでしょうか? 邪悪らのすべての手口、いわゆる「隙に乗じる」は「正」といえるのでしょうか? 邪悪のいわゆる「試練」は大法に認められるものですか? 大法が認めなければ、私達はいかなる情況の下でも「黙認」しては、いけないのです。

 私は「正」とは何か、どうすれば「正」の道を開拓できるかについて一層、新しい認識と、自分の使命に対する認識も深く感じました。

 私がこの体得を書いたのは、長期にわたって魔難に陥っている同修と共有し、みんなが共に切磋琢磨し、邪悪の妨害を突破して、時間を大事にして衆生を救うことです。現段階の悟りなので、もし法理に合わないことがあれば、ご叱正を下さい。

 師父は『道法』の中に「本当のところ、これは人間の一面の法に対する認識不足から起こったことで、人為的に皆さんの神としての一面を抑制して、つまり皆さんが修めてできあがったその部分を抑制して、神の一面が法を正すのを阻(はば)んでいるのです」と話されています。私の良くないことについては、法の勉強が足りず、心性と法理に対する認識の向上が足りなのです。これからは心を静めて法を勉強することに決心しました。同じく同修にも法の勉強を重視するよう強く願っています。

 2008年4月6日

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2008/4/1/175510.html