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少年法輪功修煉者・陳騰さんの受けた悲惨な体験(写真)

(明慧日本)山東省イ坊市の法輪功修煉者・陳騰さんは今年19歳である。1999年7月20日に中国共産党、および江沢民が法輪功を迫害しはじめ、以来、わずか11歳だった陳騰さんの苦難が始まった。小さいときからずっと彼の面倒をみてくれたお婆さん(周春梅さん)と叔母さん(孫小柏さん)は邪党に迫害されて亡くなった。また唯一の親族である母孫小梅さんが何度も連行されるところを自ら目撃し、孤独で恐怖に満ちた生活を送り、最後には退学を余儀なくされ、7年も路頭に迷った。

 この7年間、彼は同じ年代の子供に比べて耐え難い心身の苦しみに耐え、わびしく悲惨な少年時代をすごした。2007年8月、陳騰さんは大陸から逃げ出してタイに着き、国際難民署の保護を得ることができた。
陳騰さん


 家族全員が大法を修煉していて、幸せで穏やかに生活していた

 陳騰さんの母とお婆さんは1995年6月に法輪大法を修煉し始めた。法輪大法の修煉を始める前、お婆さんはいろんな病気に苦しみ、悲しみのあまり死を願うほどだったが、修煉を始めた後は元気になり、一家は穏やかな生活を送っていた。

 陳騰さんのお婆さんは山東省の特級教師であり、彼女はとても才能のある学生をたくさん育てた。しかし「文化大革命」の時、知識人で仕事も非常に真面目にやっていたお婆さんは、幾千万の素直で善良な知識分子らと同様に、共産党の発動した鎮圧運動の被害者となってしまった。お婆さんは18歳の時、共産党の鎮圧から逃れられず、「右派」と決めつけられて遠方に送られ、毎日山の上で大きな石を運んでいた。後になって、共産党は政権を維持し、人心をまるめこむためにすべての「右派」と判定されていた知識分子の名誉を回復した。お婆さんはその典型とされて、名誉を回復されただけでなく、また「全省特級教師」と命名された。40年の教学経験のあるお婆さんの波瀾に富んだ人生の中で経験したすべては、彼女の心身を極めて大きく傷つけた。11種類の病気に苦しめられ心身ともに非常に苦しく、悲しみのあまり死を願うほどだった。一旦病気が発病すると歩く力もなくなった。仕方なく、お婆さんは自ら自分に注射することを覚えた。親族らは、力なく震える両手で注射器を持ち上げるお婆さんを見ると、みな悲しく両手で目を隠し、涙を流した。

 そんなお婆さんだったが、法輪大法を修煉してからは病気がすべてなくなり、顔には赤みが差してきた。母は大法を修煉して元気になった。その当時、陳騰さん家族は本当にそれまでかつてなかった幸せと楽しさを感じていた。陳騰さんも彼女たちの影響の下で法輪大法の修煉を始めた。

 「4・25」平和陳情の際に脅かされた

 1999年4月25日、天津の公安が法輪功修煉者を不法に逮捕したため、1万人の法輪功修煉者が北京へ陳情に行った。そのとき、イ坊市からは数百人の法輪功修煉者が北京へ行った。陳騰さんの母は当時イ城区のボランティア輔導員であったが、イ坊市国家安全局、公安局に組織者と思われ24時間監視されていた。会社へ出社、退社する時には少なくとも車1台、或いは2台で数人の公安が監視していた。

 それ以降、多くの法輪功修煉者はみな北京に行き、国家指導者に、法輪大法は最も素晴らしいものであると説明しようとした。1999年6月に陳騰さんはお婆さんと一緒に北京へ法輪大法の真相説明に行った。戻ると、陳騰さんの通う学校の先生は、現地邪党部門の指示の下、何回も彼と話し合い、また北京に行けば除籍すると脅した。また夏休みに陳さんが所属する楽団でリハーサルをしている時でさえも、ずっと監視されていた。彼らは陳騰さんが再び北京へ行くことを恐れていた。お婆さんは北京へ行き法輪大法の真実を訴えた後、帰ってきて不法に監視された。お婆さんを監視し、尾行していたのは7、8人以上の警官だった。母を監視していた公安は10数人で、パトカーを運転して、寸法離れなかった。叔母さんも会社で監視されていた。そして、陳騰さんの家の前では毎日数十人が監視していた。このことは彼らの生活をきわめて大きく邪魔し、精神的な苦しみをもたらした。

 その時陳騰さんに与えた傷はとても大きかった。隣近所や同級生も、母やお婆さん、叔母さんがどうして毎日公安に監視され尾行されているのかを理解できず、あの時、陳騰さんは先生に監視されるだけでなく、真相を知らない同級生らにもあざ笑われた。

 母は連行され、お婆さんは殴打され、家は捜査された

 1999年7月20日、中共邪党と江沢民は法輪功に対する全面的な迫害を始めた。7月20日の明け方、中共は法輪功輔導站の責任者を捕まえ始めた。陳騰さんの母は当時イ坊市イ城区輔導站の責任者だった。7月14日に1万人が市政府に行って陳情する中、重要な代表として市長と話し合った。母は7月20日の明け方、警官に連行された。どこにつれて行ったのか、警官は家族に何も教えてくれなかった。

 陳騰さんとお婆さん、そして叔母さんは行方不明になった母を探すために、7月20日の午後、市政府に行き状況を聞こうとしたが、市政府大通りの交差点に着いた時、警官に強制的に連行された。連行を拒否したら、警官に暴力を振るわれパトカーに押し込まれた。60歳をこえたお婆さんは公安に地面に引き倒された後、パトカーに投げ込まれた。公安に暴力を振るわれ、お婆さんの腕は青紫になった。

 叔母さんの息子であるいとこはこの情景を目にすると、恐れて大いに泣いた。警官はまた彼らを大いに罵りパトカーに押し入れて、ある体育館に運んで拘禁した。これは陳騰さんが始めて不法に監禁されたことである。当時彼は11歳で、いとこはわずか5歳だった。

 1999年7月21日、陳騰さんの母が捕まえられた翌朝、一叢の警官がビデオカメラを手に、陳騰さんの家を捜査しにきた。警官は暴力を振るった。陳騰さんは警官がお婆さんを地上に引き倒し、家の前の団地ビル前まで引っ張って行くのを見た。当時100人を超える人が現場で見ていた。イ城区公安局のチョウという、顔が大きく黒い警官は、お婆さんを殴り、大声でお婆さんと陳騰さんを侮辱した。最後には家を捜査しめちゃめちゃにした。家の中のすべてのものは警官に投げられ、いたるところに散らかり、ベッドに置いた布団さえ床に投げられた。鏡の枠などガラス類のものは砕け、家は乱れて座るところもなくなった。陳騰さんは常にぼうっとして窓の外を見ながら、行方不明になった母を心配していた。

 それから、環境はますます悪化した。警官は毎晩腰掛を持ってきて、陳騰さんの住むビルの前の空き地に座わり、すべての行動を監視した。お婆さんの勤務先の人も公安局の指示の下、昼夜を問わず寸分も離れずお婆さんを監視した。当時夜になると、家の前には十数人も座っていた。警官が突然ドアを破って部屋に入ることを防ぐために、お婆さんと陳騰さんはドアをしっかり閉め、出入りを少なくするしかなかった。陳騰さんも他の子供たちのように自由に外に行って遊ぶことができなくなり、ただ窓から、同じ年齢の子供たちが自由に遊んでいるのを羨ましく見るしかなかった。陳騰さんはお婆さんと同じく、何の便りもなく、行方不明になった母を心配していた。その苦しい日々については、今も振り返りたくない、まるで悪夢のようだった。

 その時、陳騰さんは自ら警官が親族に暴行を加えることを目撃し、そして年寄りのお婆さんの身体にたくさんの傷跡ができているのを見た。また母を恋しく思い、母がどこに監禁されているか、拷問は受けてないか、などを考え、精神的な圧力は極限に達した。彼は心の中で絶えず、ママはどこにいる、ママはまだこの世に生きているのかとひとり言を言っていた。

 11歳の孫が一日中ぼんやりして、目は落ち窪み、どうしたらよいか分からない状態に陥っているのを見て、お婆さんは警官が再び捕まえにきたら、幼い陳騰さんが耐えられないと心配し、彼を親戚のところにしばらく泊めさせてもらった。

 お婆さんと叔母さんは永遠に離れて行った

 陳騰さんを親戚のところに送るとき、お婆さんは数日後彼を迎えにいくと言った。しかしこれがなんと永遠の別れになるとは思いもよらなかった。陳騰さんは再び慈悲深く優しいお婆さんに会うことはできなくなった。

 99年7月20日以降、警官はお婆さんと叔母さんに邪党の捏造した法輪功を謗るテレビ番組を見せ、強制的に洗脳を実施し、いわゆる修煉しないという「保証書」を書かせようとした。警官は毎日家の入り口で監視していた。お婆さんと叔母さんはこのような迫害に対し、断固として排斥した。あれらの警官はお婆さんの家の前でまるまる7日間もいた。

 その後、隣近所の老人らは、お婆さんと叔母さんは7日間家から出ておらず、食事もしなかったと言った。家には食べ物をおいてなかったし、警官は家の入口で彼女らを連行しようと待っていた。その後、お婆さんと叔母さんの死亡の情報が伝えられた。隣近所の人達は驚きのあまり、二人がこれほど短期間でこの世を去ったことを信じられなかった。二人はそれほど自分の生命を愛していて、この世界を愛していた。

 陳騰さんは小さいときからお婆さんに育てられてきたので、お婆さんに対する愛情は極めて深かった。陳騰さんの眼には、お婆さんはいつも慈悲深くて優しく、喜んで困っている人を助けていた。親族と友人は家庭にトラブルがあったら、お婆さんに本音を話した。お婆さんは常に「真・善・忍」の理念で彼らの心の結び目を解いたので、隣近所の人達はみなお婆さんをとても素晴らしい人だと言っていた。

 お婆さんがこの世を去ったあと、陳騰さんは母がどこに監禁されていたかまだ知らなかった。親族の家にいる間、彼は母とお婆さんが迎えにきて家に帰れることを昼夜待ち望んでいた。夜、いつも夢を見ては泣きながら目が覚めた。しかし彼はどうしても、優しくて慈悲深いお婆さんがすでに永遠に彼を離れて行ったことが想像できなかった。彼には、自分の面倒をみて育ててくれたお婆さんに今生再び会うことができないなど想像もつかなかった。

 大人達は陳騰さんに、お婆さんと叔母さんが亡くなったことを隠していた。彼には二人は故郷に帰ったと伝えた。陳騰さんはとても愉快な気分で、二人が帰ってくるその日を待っていた。とても恋しく思っていたが、大人たちの善良な嘘に、彼の心は一種の希望を抱いていた。

 その後、陳騰さんは無意識な大人たちの会話の中で、お婆さんと叔母さんが迫害を受け亡くなった真実を知った。まるで天が崩壊し地が陥没するような感じだった。しかしすでにとても苦しそうな、釈放されて帰ってきたばかりの母を見ると、彼はあえて涙を流してはいけなかった。すでにお婆さん、叔母さんを失ってから、更に母まで失いたくなかった。陳騰さんは母から一歩も離れず、母が再び警官に捕まえられて行くのを恐れ、再び母に会えないことを恐れていた。

 その後、陳騰さんは母の回想文から、母が1999年7月20日に連行された後、お婆さんと叔母さんが迫害により亡くなったことを聞いた時の状況と心情が分かるようになった。母は、1999年7月27日の夜10時過ぎ、ちょうど秘密のところに監禁されていた。その夜、ママを拘禁した部屋には多くの警官が追加され、雰囲気は突然緊張してきた。その後、ママは警官からお婆さんと叔母さんがすでに亡くなり「自殺」したと聞かされた。このことを聞き、ママはその場で気を失ってしまった。母が目覚めたらまもなく、その場にいた幹部らは翌日直ちに遺体を火葬したいと言い出した。当時ママはほかの省に住んでいる親戚がまだ着いてないと伝えたが、現地政府はすぐ火葬したいといい続けた。

 当時ママの精神的打撃はあまりにも大きく、恍惚状態のまま、お婆さんと叔母さんの死亡原因を聞いた。21日に数台のパトカーがやってきて、30人の公安が家に行き家宅捜査を行い、お婆さんと叔母さんは公安局の警官と政府の幹部らに部屋の中で包囲攻撃された。当時警官は二人を連行して、法輪大法を謗るビデオを見せ、強制的に洗脳しようとしたがきっぱり断られた。その後、7日間家は包囲され、食事もまったく出来なかった。二人が亡くなったことが宣告された後、親族らは彼女らの腕に傷があることに気づいた。死亡原因はいったい何か、家族は誰もしるすべがなかった。なぜなら、家族は現場にいることが許されず、公安局の警官だけがいたからだ。隣近所の人は、27日の深夜にパトカーが1台やってきて、二人を運んで行ったといった。なお、その人は彼女らがベッドのシートに包まれているのを、ビルの上から見たといった。

 7月28日、母の精神が恍惚としている中、公安に火葬場に送られ、お婆さんと叔母さんに別れを告げた。その時、公安は厳しく警戒していて、数人の公安が母の左右にぴったりついていたので、親戚らは母と話す機会もなかった。十数分後、警官はむりやり母をつれて、火葬場を離れて行った。親戚は母に二人の葬式に出席するよう要求したが、公安は、母はまだ監視中なので、如何なる自由もないといった。

 7月20日から8月20日までの不法な監禁期間中、深刻な精神的打撃を受けた母は体重が本来の55キロから30数キロに減り、1カ月間不法監禁された後、やっと釈放された。

 母は釈放された後、すぐ陳騰さんを迎えに親戚の家に来て、1カ月余り離れていた家にやっと戻ることができた。何もない部屋を見て陳騰さんは、一時期幻覚が現れた。なぜなら、悪党が法輪功を弾圧する前、陳騰さんが学校を終えて家に帰ると、入口のところで、お婆さんが身体を寄せ自分の名前を呼び、慈悲深く迎えてくれたからである。お婆さんは在世時、毎日こうして彼を迎えてくれた。このような幻覚が現れたとき、陳騰さんはたまに幸せを感じ微笑んだが、微笑がまだ消えない内に残酷な現実は、彼に、それは永遠に美しい思い出にしかならないと教えた。

 再び母を悲しませないために、再びお婆さんと叔母さんのことを思わないようにさせるために、彼は毎回失望のあまり大いに泣いても、涙が出ないように抑えた。母の前で泣いたことはなく、母に見えないときに、こっそり涙を流していた。後になって、母の話す言葉の中で、母も陳騰さんを悲しませないために、彼と同じく、涙を抑えて笑顔で彼に接したことが分かった。母も二人のことを思い出すと、苦しくてどのくらい涙を流したかその回数は数え切れないほどだった。お婆さんが迫害により亡くなってから、陳騰さんと母は互いに支えあいながら、苦しい生活を過ごした。

 母は再度捕まえられた

 1999年10月、新華社は法輪大法を謗る文章を発表し、法輪功を邪教と中傷し、世論を煽動した。文章の中には陳騰さんの母の名前も出され、母が国家機密漏洩罪を犯し、国家の極秘の情報を国外に送ったとでっち上げた。文章が発表された当日、イ坊国安、公安は山東省610弁公室の指図の下、会社の安全保護処が先頭に立ち、再度母を連行した。

 その日、陳騰さんと母はちょうど食事中だった。母の会社の保安は相談したいことがあると言って母を外に呼び出した。しばらく経っても、母は戻ってこなかった。その後、母の会社の幹部が来て、彼に母が連れて行かれたと教えてくれた。このことを聞いた途端、陳騰さんは恐怖のあまり、声を出して大いに泣いてしまった。母もお婆さんと同じく、永遠に戻ってこなくなることを恐れ、再び母に会えないことを恐れ、彼の全身は恐怖に包まれた。当時彼の悲惨な泣き声に、母の会社の多くの小母さんたちもみな涙を流した。悲しみのあまり、声を出して泣く小母さんもいた。

 お昼になると、他の子供はみな両親が迎えにきてくれたが、母が捕まえられてから、陳騰さんは1人で学校のグラウンドの芝の上に倒れて、空を見ながら母を思い出し、ときには悲しみのあまり、寝てしまって何も考えずこのすべてを忘れたかった。彼は目を閉じ、ゆっくりと寒い風の中で一睡した。しかし目が覚め、どこに監禁されているか分からない母を思い出すと、悲しみと骨に沁みる北風はまだ食事を取ってない陳騰さんの全身を常に冷やした。学校が終わり、同級生が母に迎えられ、幸せそうに母に身体を寄せて或いは母と手を繋いで帰るのを見ると、牢屋にいる母を思い出し、陳騰さんは壁のへりに沿って、孤独に歩きながらこっそり泣いていた。

 陳騰さんは最も幼い囚人になった

 面倒を見てくれる人がおらず、また陳騰さんが毎日母に会いに行ったため、警官は最終的に彼を母と一緒に監禁した。そして陳騰さんはやっと母と一緒にいられるようになった。しかし彼も囚人になってしまった。最も幼い囚人になった。

 寒い冬に、母は毎日十数人に監視され、如何なる自由もなく、保安は母が監禁されている部屋の向こう側の部屋にいた。随時に母を監視できるように、母の部屋のドアはずっと開けっ放しになっていた。彼らを監禁していた部屋はとても寒く、一日中太陽は見えず、窓のガラスには厚い氷がついていた。零下10度の気温だったが、陳騰さんは着替える衣服がなく、毎日ただ薄いズボンと上着を着ていた。このような状況下で、陳騰さんと母は3カ月間不法に監禁された。この3カ月の間、陳騰さんは朝食を1回も食べたことがない。彼らを監視していた保安さえも、もし自分がこのように3カ月間監禁されたら、私はとっくに狂ってしまったはずだと言った。

 3カ月後、あと数日経ったら新年というとき、彼らは釈放された。新年の爆竹は度々鳴り響いていたが、陳騰さんと母はお婆さんと叔母さんを失った苦しみの中にいた。それは彼らが親族を失って初めて過ごした悲惨な新年だった。当時陳騰さんは12歳だった。

 母は再び連行された

 2000年10月31日、イ坊地区の610弁公室は陳騰さんの母が10月1日に北京へ真相を伝えにいくことと、大規模に「江沢民を告訴し、中華に恥をかかせてはいけない」、「逃れてはいけない歴史的責任」という二つのちらしを貼ったり、配布したりすることを組織したという理由で、陳騰さんの母を連行しようと企んでいた。

 陳騰さんと母はドアを開けず、断固として迫害に抗議した。警官は家の周囲を2日間包囲し、電気を切断し、強制的にドアを壊して家の中に入ろうとした。陳騰さんと母は昼夜寝ることができず、警官がドアを破って入ることを心配した。母は昼夜ドアの入口のところで、警官が万能鍵で強制的にドアを開けないように、手でドアの錠をしっかり押さえていた。こうして2日間対峙した後、母は再び捕まえられた。

 このような永遠の別れのような苦痛は、12歳の陳騰さんにとって、まさに言葉では言い表せないものだった。彼は、なぜ「真・善・忍」の信仰を堅持するだけで、家族がばらばらにならないといけないか理解できなかった。彼は本来楽しい少年時代があるべきだったが、親族を失う苦痛に1回、また1回と遭わされた。

 1カ月後母は釈放され家に帰ってきた。しかしわずか数日経つと、警官はまた母を捕まえようと企んだ。当時、不法に母を労働教養させる通知はすでに警官に下されていた。今回母は再び捕まえられないように、仕方なく路頭に迷うことを決心した。

 陳騰さんは母がまた彼から離れると知り、非常に悲しかった。しかし彼は母が再び警官に捕まえられてはいけないと知っていた。この別れの苦しみは彼にとって、言葉にできないものだった。しかし母が警官に捕まえられることよりよほどよかった。彼は母が警官に捕まえられるのがとても怖かった。母まで大法を修煉する多くの小父さんや小母さんのように迫害され死亡したら、彼にはこの世に親族がいなくなるのだ。

 母が釈放されて家に帰っていたその数日間、陳騰さんは夜眠れなかった。両手で母の腕を抱いて、自分が寝てしまったとき、またもや母を失うことを心配していた。深夜、陳騰さんは寝ついても両腕はしっかり母の腕に巻き付いていた。彼は会って数日しか経ってないのに、また母を失うことを非常に心配していた。

 陳騰さんの母は仕方なく路頭に迷うようになった。別れるその夜、母は絶えず涙を流し、枕を濡らした。母は自分の子供の面倒を見る静かな日々を過ごし、陳騰さんが気楽に学校へ通うことができ、彼の深く傷つけられた心が慰められることを望んでいた。母は、極めて信頼していたお婆さんと叔母さんが亡くなった後、陳騰さんが完全に別人になっていることに気づいた。陳騰さんは常にぼんやりと1人で立っていて、しばらく何もしゃべらなかった。また学校から帰って家に入っても母が名前を呼ぶまで、しばらく入口のところでぼうっとして立っていた。名前を呼ばれたら応答するが、しかしすぐ自分の部屋に入り、絶えず涙を流し、こっそりと泣いていた。

 後で聞いたが、母が家を離れてすぐ、警官は母を捕まえにいった。彼らは母が家にいないことを知ると、母を捜しに親戚の家に行った。

 警官は母を捕まえるために、陳騰さんが学校に行く時尾行し、かつ学校の先生に彼を除籍するように何回も要求した。警官はずっと不法に陳騰さんを尾行していた。1度は、彼がネットカフェでインターネットを利用しているとき、私服警官が彼の向こうに座ってゲームで遊んでいた。腰にかけていたトランシーバーはまた度々「わあわあ」とむやみに鳴っていた。同級生は陳騰さんにあそこに警官がいると言ってくれたが、しかし彼らはその警官が陳騰さんを尾行していて、彼らの最終的な目的は陳騰さんの母を捕まえることだとは知らなかった。

 12歳で仕方なく中途退学し、7年間路頭に迷った

 それから陳騰さんは再び普通に通学することが出来なくなった。母は公安に指名手配の重要な対象となり、警官はいたるところで母を捜していた。母が家を離れたとき、最初はとても善良な同修の小母さんと小父さんが陳騰さんを引き取って世話をしてくれた。しかしその時その同修も重要な監視対象だったので、陳騰さんはそこに長く滞在することができなかった。

 警官が再び学校に行って彼を迫害しないように、また彼が学校に通う面倒をみてくれる人がいなかったため、陳騰さんは仕方なく、自分がとても好きだった学校を離れ、一緒に楽しく遊んでいた同級生と離れて、路頭に迷う生活を始めた。最初これを決心したとき、とても苦しかった。それは風が吹き、雪が降る夜だった。陳騰さんはライトの光のない廃屋の階段に座って、泣きながら寝た。学校の生活を失ったばかりの時、彼は常に深夜にこっそりと泣いていた。夢の中では常に同級生と楽しくバレーボールをしたり、隠れん坊をしたりしたが、毎回泣きながら目が覚めた。陳騰さんはいつか自分が5年間通っていた学校に帰れる日がくることを、どれほど待ち望んでいたか、彼はどれほど再び楽しい学校生活を続けたかったことか。

 母は彼を一時的に借りた家に迎えてくれた。路頭に迷う中、陳騰さんと母は真相資料点に住んだ。彼らが住んでいた部屋は基本的に家具がなく、普段は床にビニールの敷物を敷き、その上に布団を置いていた。夜はその上で寝た。資料点にはプリンター、パソコンと真相資料作成に必要な物品となくてはならない生活用品の外、何もなかった。食事はもっとも簡単なものにし、且つ邪悪に見つからないように、資料点の安全のために、陳騰さんは勝手に部屋に出入りすることができなかった。一番長いとき、彼は半年間ずっと部屋にいた。

 路頭に迷う間、陳騰さんは心身とも極めて大きく傷つけられた。数年来、彼らの住まう環境は極めて険しく、いつも警官に部屋を検査される危険に直面していた。彼らの住むところは夜になると光が外にでないように、窓に厚い毛布をかけていた。数年来、一旦夜になると、陳騰さんが初めにやることは窓に這い上がり、厚い毛布をかけることだった。とても細心にしっかりと窓を塞ぎ、その後にライトをつけた。数年来、これは彼らがずっと続けていた仕事だった。このことから、この路頭に迷う生活が陳騰さんの心にどれほどの恐怖と抑圧を与え、痛めつけたかが分かる。

 2005年以降、陳騰さんは母に会ってない

 修煉後の母の善良と強靱さは陳騰さんに大きな影響を与えた。彼はこのような母がいることを自慢に思っていた。しかし、想像できなかったのは、5回も不法に捕まえられた母が、2004年4月24日に再度悪人に強制連行されたことだった。

 突然訪れた打撃に、既に深刻に傷つけられていた陳騰さんの心はもう一度大きな打撃を受け、彼はほとんど精神的に崩壊寸前だった。彼は空を仰ぎながら、どうして、どうしてと絶えず自問した。泣こうとしても涙がでなかった。どうして中国という5千年の文化のある国、礼儀の国と呼ばれる土地で、今、よい人になること、真・善・忍を信仰する権利もないのか、と。彼と母は中国大陸にいる多くの法輪功修煉者と同様に、ただ自由に煉功できる環境を求め、自分の信仰、よい人になる権利を持ちたいと思うだけなのに。これの何処が間違っているのか? どうしてこれほど残酷な迫害を受けなければならないのか?

 母は連行された後、まもなく迫害によるひどい病状が現れ、留置場はあえて受け入れようとしなかった。しかしこうした状況であっても、邪悪は母に対する迫害をやめず、彼女を洗脳班に送って不法に監禁した。警官は母が危篤状態に陥ってやっと釈放した。

 しかし邪党は、母の身体が回復したらまた捕まえると言いふらした。母は仕方なくもう一度路頭に迷うしかなく、陳騰さんはそれ以降母に会ってない。

 恨みもないし、後悔もしない

 陳騰さんは11歳から迫害を受け、12歳で路頭に迷い、監禁され、尾行され、学校に脅迫され、自らお婆さんが警官に殴打される残忍な光景を見た。母が警官に強制連行される恐怖も見て、自分も警官に追跡された。警官に追跡される中、慌てて引越しすることもいっぱい体験した。警官に尾行されたため、大雨の中引っ越したこともあり、7年間路頭に迷うなかで、彼は母と、他の路頭に迷う法輪功修煉者と共に放浪の生活をした。19歳になるまでの7年間、彼は60数カ所に住んだ。

 2005年に陳騰さんが路頭に迷う時、長年面倒をみてくれた小父さんが強制連行されて、労働教養所へ送られ残酷な迫害に遭った。同修の小父さんが連行された後、借りた部屋が国安に知られているかもしれないことを心配して、陳騰さんともう1人の同修はその日の夜、借りた部屋を離れた。後になって、彼らの判断が正しく、その夜警官は彼らが借りていた部屋に行ったことが分かった。今回陳騰さんはまた残酷な迫害から逃れることができた。しかしこのとき、彼の精神的忍耐はもう極限に達した。一旦邪悪に捕まえられたら、非人道的な虐待を受けるところだった。なぜなら、陳騰さんの面倒をみてくれたあの同修の小父さんは強制連行された後、残酷な迫害を受けて、40キロの体重になっていたからだった。小父さんは本来背が高く、とてもハンサムな人だった。

 7年の流浪生活を経て、家というのは陳騰さんにとってすでにぼんやりした記憶となった。彼はやむを得ず、行くところがなくて町を放浪していたとき、骨身に沁みる寒風の中、長く離れていた家に戻ったことがある。家のドアを開くと、中はぐちゃぐちゃになっていて、床にはいろんなものが散らかっていた。クモの巣がたくさん張っていて、まったく家とはいえず、とても長く人が住んでいない旧い廟と言ったほうがましだった。当年彼と母が路頭に迷って以来、家の水と電気は切断された。6年間、家には水も電気もなかった。寝るときに常にタンスなどの家具の中からとても大きな音が聞こえてきた。開いてみたら、中にはなんと鼠がいっぱいいた。鼠は常に床で走り回っていた。冬になると更に恐ろしく、家の窓はすでにきっちり閉めることができず、なお北方の冬はもっとも寒いとき零下10度まで下がっていた。外が寒くなると、部屋の中も同じく寒くなった。すると彼はまったく布団の中から出ることができなかった。最も寒いとき、ミネラルウォータの瓶が一夜の内に氷になってしまった。

 同じ年齢の少年らがキャンパスで人生の最も美しい時代を過ごし、両親の配慮のもとで憂いも心配もない生活を送っているのを見るとき、陳騰さんも彼らと同じような生活、最低でも暖かくて、安定した家がどんなに欲しかったか? しかし、江氏集団の残酷な迫害の下で、このような最低限の要求も、現在の彼にとってはただの夢である。

 それでも陳騰さんには恨みもないし、後悔もない。母と一緒に路頭に迷う中で、陳騰さんはかつて「周遊」という詩を書いたことがある。同修の小父さんが音譜をつけてくれ、歌手の白雪小母さんがこの歌を歌ってくれた。陳騰さんはこの歌がとても好きだった。歌詞の中には1人の修煉者としての陳騰さんの度量と美しい願望が書かれている。「いたるところを家にする修煉者、十方を行脚する逍遥神。空を突く青松、雪の中に立ち、共に慶び、共に祝い、共に春を讃える」。 

 2008年4月19日

(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2008/2/17/172599.html