■日本明慧 http://jp.minghui.org/2008/05/07/mh083023.html 



学法すること、それよりも法を真に得ること

(明慧日本)私は今年28歳で、2004年12月に法に出会いました。私の最近の感想では、法を勉強することも重要ですが、真に法を得ることはさらに大事だということです。師父が『転法輪』で語られているように「人が佛の名前を念ずる時、心には何も雑念がなく、大脳のその他の部分が全部麻痺して、何もかも分からなくなるまで、一心不乱に念じなければならず、そうすれば一念が万念に代わるので、『阿弥陀佛』の一文字一文字が目の前に現われてきます」。法を学ぶときは高度に集中することが重要だと思います。さらに、師父がおっしゃることのすべては、私たち一人一人を指しており、このことは彼を指している。あのことは私に関係ないなどと絶対思い込んではいけません。師父のおっしゃることはすべて私たちのための法なのです。

 私が最初に読んだのは『法輪大法義解』でした。はじめてこの博大なる神秘な世界に出会ったので、頭が好奇心でいっぱいだったこともあり、法を読むときは自分が「面白い」と思う内容を中心にしていました。たとえば、師父が説法で言及された巨人・現在の大きさの人・三寸法師のような小人とか、天上の神がどのように存在しているかとか、人類歴史上のさまざまの面白い話などに最初に興味を持っていました。こういった内容を選んで読んだだけでなく、自分がよく法を習っており、修煉状態が(特にその辺の年配女性の修煉者より)良いとばかり思っていました。

 ここまで読むと皆さんもおわかりのように、私はこういう執着心抱いて修煉を始めたのです。興味で始めたことは、後に私の根本的な執着になりました。師父が『精進要旨』の『堅定』で書かれているように、「興味のために来るのは、心が必ずしっかりしていないのであって、世俗に入れば、きっとその根本を忘れてしまいます。 その念を固く守らなければ、一生、得ることはありません。いつまた機縁が結ばれるか分からず、難しいことです」。この根本的な執着がずっと私の修煉の道のハードルであり、3年来、走ったり止まったりしていました。精進するときは一気に自分を大法の中に溶け込ませようとする一方、常人社会から抜け出さないときは精進しようとする心すら消えてしまい、なぜ、まるで泥沼に陥ったようになるのだろうかと、自分に対して自信を喪失していました。こういった状態から大法修煉に戻ろうとしますが、できずに日が経つばかりでした。時には法を勉強していても、自分の気持ちでそうしたいのではなく、それを終わらせて早くゲームをしたいとか、買い物に行こうと考えたために、法を勉強する時間もますます減ってきて、最終的に完全に迷いに落ちて、法を学びたいとすら思わなくなりました。しかしながら、それでも師父は私をあきらめておられませんでした。数回明慧ネットの修煉体験を読むと、私は体中に電気が走ったように、急に目が覚めたような気がしました。自分の状態が見え、他の修煉者との差がみえました。いきなり目が覚めた私は無駄にした時間を悔やんでなりませんでした。

 ここで私は精進しない同修に助言をしたいと思います。必ず明慧ネットを見ましょう。精進している同修がどのように行っているのかを見ることこそ、自分の不足が見えてくるのです。さもなければいつも自分を常人と比較して、自分がよい状態にいると勘違いしてしまいます。

 通常、新しい修煉者には、もう一つ執着がある場合があります。それは自分が法に出会うのは遅いという観念です。「法に出会ったのが遅いので、法が世間を正すときに自分は成就できますか? 私は正法時期の大法弟子でしょうか?」と。私も長期間この執着に煩わされていました。私はきっと第一期の大法弟子ではなく、今回は円満できないので、焦ってもしょうがない、ゆっくりやりましょうと、人に比べてまた自分に対し緩い基準を定めました。同修が発正念をしても、私は彼らと違うので、回数を減らしてもよい。真相伝えにしても、私は彼らほど責任が重くないので、量を減らしてもよいというような観念で自分がどうしても大法に溶け込むことができず、真の修煉者ではなく、よそで授業を傍聴しているだけだと感じていました。

 実際、これは自分の観念に阻害されているのであって、法を得た時間の長さを大法弟子の基準に置き換えてしまったように思いました。大法弟子かどうかをはかるのは、大法と持つべき心性ではありませんか? 時間に対する執着は、他でもなく常人社会のなかでできた年功序列の後天的な観念ではありませんか? 「大法(ダーファ)の師は一人しかいません。入門した者は早い遅いにかかわらず、全員弟子です」と師父が『転法輪』で語られているにもかかわらず、どうして自らそういうハードルを設けるのですか? これでは弟子としてすべきことができなくなるのではありませんか? もう一つ執着になりやすいのは新しい修煉者にとっては時間が足りないのではという疑問です。師父の説法を思い出しましたが、私の理解では、この時期に法を得るとは、それに見合う十分な時間があるのです。しかし、その十分の時間とは円満に至るまで精進することを前提としており、精進しなくて円満できるわけはありません。上記の修煉体験がすべての修煉者に参考になれば幸いです。

 2008年5月7日

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2008/3/10/174032.html

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