「啓示」に執着してはならない
(明慧日本)啓示は法ではなく、啓示は修煉者に法を思い出させ、法に照らし合わせるものです。私たちは法だけを師にすべきです。啓示を師と思ってはなりません。もし何にでも啓示があるならば、「修」はないのです。それは試験のときに、先生がいつも傍にいて頻りに教えるのであれば無効であることと同じです。 修煉者は自分で道を歩まなければなりません。
人は迷いの中にいるので、すべての啓示が真の啓示であるということはありえないのです。啓示は夢の中や、或いは自分と関係ある人の言葉に現れます。しかし、夢や言葉などには、邪悪が隙に乗じることもあり、修煉者を魔難に導くこともあります。
執着心をなくしていない或いはなくしたくない場合、法の中に言い訳を探し、あるいは啓示によって言い訳をするのです。こうすると、「法に従って」いるようで、こころを咎められなくて済み、同時に常人の執着を持ちながら、気持ちよく修煉できるのです。結局長い間、魔難の中に身を置いてもわからないのです。
2008年5月9日
(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2008/5/6/177875.html)
明慧ネット:jp.minghui.org
|
|