7年間の資料点での生活から見た私の修煉の歩み(三の上)
文/大陸弟子
(明慧日本)
資料点における「他人が動くのを待つ」及び「他人に頼る」現象
2005年に、ある地区の同修の中でこんな事件がありました。資料点の同修が一部の御守りのカバーを自分の所在地にいる責任者へ渡しました。しかし、この責任者は、「どうしてこのことを最後まで完成させないの? あなたたち(資料点の同修)は何をしているの? こちらの人たちはみな金を出しているのに」と言ったのです。この責任者は、このような仕事は外で流浪生活をしている同修か資料点の同修がやるべきだと言いたかったようです。しかし、この人が言う「こちらの人たちはみな金を出しているのに」という話は、私はどうにも理解できません。多分彼女(責任者)は金を出している同修は法を実証しなくてもよい、或いは自分は金を出して大法の事をする同修に奉仕しているのだと思っているのかもしれません。この話を聞いて資料点の同修たちは何と言えばいいのか全然分からなくなりました。このような発言が大法弟子の口から出てきたのが信じられないのです。
資料点の同修は、時間をいつも目いっぱい使い、真相資料を急いで完成したらまた家にいる同修へ渡さなければなりません。しかし、真冬の師走の時期には、風雪にもかかわらず道路で待ち合わせのために1、2時間待たなければなりません。家にいる同修たちは、真相資料を受けとることも、互いになすりつけてしまいます。しかし、自ら真相資料を作り更に届けに来て、寒い中で立ち続けている同修がどんな気持ちでいるか考えてみたことがありますか? 時々、資料点の同修がどうしても忙しい時に、家にいる同修達に取りにくるように求めて、家にいる同修の困ったような様子を見ると、資料点の同修はとてもつらいのです。このすべての資料は資料点の同修のために作っているかのようです。資料点の同修が出てくるのが少し遅くなったときに、資料を受け取る同修の不満そうな表情を見ると、本当に申し訳ないと思いますが、言葉で言えないつらさと無念さでいっぱいでした。
ある同修はしぶしぶ家庭資料点を造りました。しかし、なにごとも発生しなければいいのですが、一旦何かあり或いは邪悪に迫害されたら、その恨みを一気に我々に向けるのです。言葉で言わなくても、これらのすべては貴方のせいだ、すべて貴方の責任だというのです。どんなことも偶然ではありませんので、今後資料点の同修は本当によく考えなければならず、修煉はかならず内心から向上しなければなりません、本当に修したくない、大法のことをしたくない人を我々が本当に無理に抜擢する必要はありません。
特に本来自分が心から、法理から分かっていない同修に対して、たとえ彼のために家庭資料点を造ってあげても、それからは一切の需要をサポートしなければならなくなるのです。パソコン、プリンター、紙、インク、印刷シール、ラベル、ラミネートフィルム、ラミネート機、ペーパーカッター、ライティングドライバー、ディスクまで、小さいのものではホッチキス、針、熨斗袋などすべてを用意しなければなりません。これ以外に、すべての設備のメンテナンスをもします。私自身は、これらのすべてを1人でやっています。各種の消耗品の供給先を探し、クオリティチェック、値段交渉、出荷、荷受、配達など一切をやっているのです。どんな消耗品でもこのような手順が必要で、購入から同修の手元に届くまでがすべて巨大な、細かいプロジェクトです。他にまだ資料点の技術者の養成も担当します。もし家庭資料点で間に合わなければ、同時に2台のインクジェットプリンターと1台の大型機を使います。たまには周辺地区の技術の一部も面倒みなければなりません。
実は私みたいな人は、資料点の同修としてはごく普通です。普段たとえやることがすくなくでも、1日に10回も電話を受けることがあります。この電話は、商売相手、供給先、また現地および外の同修からの連絡です。これらの電話ともうまく段取りしなければならず、手は空いても頭は考えています。これらのことを誰が理解できるでしょうか? 他の同修はどれ程見ているでしょうか? 我々は他人からの理解と同情は求めませんが、所詮1日は24時間しかなく、1週間も7日に過ぎず、他人からの委託と自分が見つけてやるべきものをすべてスケジュールに入れて、やりきれるでしょうか? これはとても現実的な問題です。
これほど多忙な仕事が、学法することを邪魔して、資料点の同修は法を暗記することなどとてもできないと言っても言いすぎではありません。本当に学法をしたいと思いました。これが資料点の同修の生活でした。これも邪悪が彼らを迫害する理由です。往々にして、他の同修が言うように、彼らが学法しない或いは学法を重視しないということではなく、彼らは根本的に学法する時間がないのです。これほどきつい仕事のため、旧勢力の迫害もさらに増すのではないでしょうか? もし、これほど多くやるべきことがなければ、もしたくさんの同修が人に頼らなければ、学法が自然によくでき、もちろんそれほど強烈に自己表現する心は生じないと思います。もし同修たち皆が衆生を済度することを自分の責任と認識して、積極的に自分の能力を生かせば、その個別の同修は名利心、顕示心、歓喜心もなくなります。だれもが他人より劣らず、だれもが他人に勝らない、そうすれば一切の悪い要素が解体してしまうのです。
師父が『転法輪』中でいわれた労働模範のことを思い出しました。その人は仕事が上手くできるからこそ他人から皮肉を受けました。「今日では労働模範をつとめるのも辛いもので、『君は労働模範だから優秀だ。君のような人は、朝早くから夜遅くまで働くべきなので、この仕事は全部君に任せたよ。君は良くできて、俺たちはどうせ駄目だから』と、あてこすりをされますので、良い人になるのも辛いものです」。このような同修からの言い方も少なくありません。ただすこし間接的なだけです。とくに資料点の同修或いは協調人の境遇はまったくこのようです。「貴方たちの資料点の同修は上手くてきているのだからすべてやってください、我々は駄目だ・・・」 。もし彼らの次元が低いと言うと、きっと不満に思うのです。いわば、常人社会の模範人物と一緒で、仕事を他人よりたくさんしなければならず、給料は他人より多くもらってはいけない、さもなければ工場が大騒ぎする。根本的にはある利己的な心のせいで、本当に全体或いは他人のためにしていないのです。もし私たちが真に同修のために或いは協調人のために考えれば、彼らが「扶養してもらっている」という事に拘らず、正法時期の大法弟子の心で彼らに接して、大法の仕事の上で彼らを手伝うべきです。これこそ現実的なものであり、問題を解決する根本になるのです。
資料点で資料を作ったにもかかわらず受け取る人がいないのに、それでもなお自分一人だけ資料点に残って「扶養してもらいたい」と思う人はいないと思います。しかし私が言いたいことは、すべての資料点の同修のもっている人心を隠すため、ないし口実を探すためではなく、法はその基準の要求があるので、各自は自分がやることに対して責任を負わなければなりません。精進する同修は何処でも精進することができ、どこでも師父に対する信念を持って自分なりの道を開拓していきます。資料点にいれば精進でき、資料点を出たら精進できないとは言っていません。しかもすべてやることは、師父の正法の要求に従ってするべきではないでしょうか? 資料点自体は固定的な概念で、つまり我々も資料点の概念を固定してはならず、「特殊」とか「有利」とか言えないのです。一方、家にいる同修はやはり資料点の同修が「格別」だとか「万能」だと思い、心性上、法理の面で彼らに特別に要求し、大法の仕事なら何でもできるはずだと思わないでください。もし、彼らを見る高い基準を以って自分自身に照らし合わせてみれば、彼らよりも優秀かもしれません。実は、このすべてのことは資料点の同修及び家にいる同修の一部の人心の現れです。もし我々皆が各自異なった人心を放下して一歩前に進めば、全体的な環境はきっとよくなります。
ここで、私はひとつ言いたいことがあります。すべての同修が資料点の同修或いは協調人の生活に関心を持って欲しいのです。ここでいう生活は常人社会の生活ではなく、修煉中の生活です。過剰で過酷な労働をいつまで彼らに負わさなければならないのですか? このような環境をすでに彼らは7、8年続けています。私たちの同修である彼らのことを考えたことがありますか? 家にいて、毎日安心して学法し、数時間かけて法を暗記し、2時間煉功し、数時間家族のためにつくしているとき、彼らのことを考えていますか? 一日3食を平気で食べているときに彼らのことを思っていますか? すでに彼らに問題があると気が付いた同修は、傍観者の心をもって対応しないで欲しいのです。もし彼らに問題があるとわかったら、避けないでください。貴方がすることは彼らのため、全体のためで、これも大法弟子としてあるべき心と気風です。もし、貴方が彼らは「扶養してもらっている」と思ったら、彼らと直接相談し、何が原因で仕事をせずに、「扶養してもらうのか」と追及してください。もし誰かが大法の為に忙しくて出来ないと言ったら、貴方は積極的に一部を分担するか或いは他の同修と交流して大法を実証する仕事を受けもってください。大法を実証することは元来個人のことではなく、全体のことですから。このようにすると、皆がこのすべてを積極的に背負うことになるのです。
師父は「あらゆる事物は孤立して存在しているものではありません」(『シンガボール法会における講法』)といわれました。我々は資料点の同修が「扶養してもらっている」のを見て、このことも孤立に存在していないと思いましたか? そこに我々が面しなければならない問題があるかどうかを考えていますか? 実は、数年来資料点の同修と家にいる同修の間はずっと資料製作と資料供給の相互関係を保っています。これは同修がインターネット上で交流したとき、資料点の同修が、「扶養してもらっている」という問題と全く同じです。家にいる同修は真相資料に関して、同じく「扶養してもらっている」問題を交流すべきではないでしょうか? なぜ皆がこの方面の問題をあまり見ないのでしょうか? なぜこのことについて交流しないのでしょうか? この問題に気が付かなければ、きっと我々は師父が言われたように「相手のことは即ちあなたのことであり、あなたのことは即ち相手のことです」(『2002年ワシントンDC法会での説法』)になっていないのです。交流したがらないことは、一つの私心、即ち自分に有利なことなら交流し、自分に不利ならば黙ることではないでしょうか? なぜ、1,2千人の資料をいつも2、3人の資料点の同修が供給するのですか? これこそ「扶養している」と言えないでしょうか? なぜこれほど大きい問題を皆で考えないのですか? 原因は我々が問題を見る視点は私心からみるためで、そうでなければこれはとっくに分かっているはずです。
ちょっと考えてみてください、今現在どれくらいの同修が家庭資料点について、人の家なら条件は合うが、自分の家ならちょっと無理だと思っているでしょうか? 我々のところは嘗てこのような笑い話が発生しました。あの人はこの人の家が家庭資料点にぴったりだと思い、この人はあの人の家こそちょうど条件に合うと認識しました。ずばり言うとその中にこそ私心があります。あなたは何もしなくても、人の次元ではすべて確保できましたが、実はあなたは失ったのです。自分の未来さえ掴んでいないのに、人の次元ではもっと自分の思い通りに進まないのです。いつも口実を探して大法を実証することをしない同修こそ一番劣っており、これより劣る者はいないのです。なぜかと言うと、大法の真実を知る生命なのに、まだ努力をしない、これは悟性が一番悪いのです。正法の進行は一瞬で終わるので、なぜ積極的に多くやらないのでしょうか? これは宇宙の中で永遠になくなるチャンスです。もし正法の中で法を実証する機会を失ったら、それはあなたの生命の一番の損失であり、一番大きい損失です。もしこの正法の過程を失ったら、生命を再生する機会を失うのに等しいのです。
(資料点):中国共産党の法輪功への弾圧が激しくなる中で、各地の法輪功修煉者によって自発的に設立され、真相資料などを作製する拠点のこと。
2008年5月10日
(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2008/4/26/177107.html)
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