日本明慧
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7年間の資料点での生活から見た私の修煉の歩み(四の上)


 文/大陸大法修煉者

(明慧日本) 

 真剣さと貢献

 真剣に貢献したくないというのは、苦労したくないことと同じです。1人の資料点の修煉者が当時技術を覚える時の話をしてくれました。真相資料の見た目をより魅力あるものにするために、イラストを入れようと考えたようです。もともとすぐできることなのですが、技術の門外漢にとっては大変です。そこで、技術的知識を持つ修煉者に聞いたところ、その修煉者の親族の友人ができることがわかりました。そこで、その修煉者と親族が友人のところに行き、教わってきて、さらに担当者に教え、やっとそのイラストが完成したのです。本人に聞いたところ、イラストだけで1週間もかかったというのです。なぜなら、技術的知識を持つ修煉者は50キロ以上離れた場所にいるからです。このようにたとえ一つの簡単なイラストでも複雑な経緯があります。当時は今のようなゆるやかな環境でなく、技術的にサポートしてくれる修煉者を探すのは困難でした。今となっては、多くの技術的知識を持つ修煉者がわざわざ完成した技術を教えてくれているのに、無視したり、大切にしなかったりしています。なぜでしょうか? 私たちは相手のために考えたのでしょうか? 技術を教える修煉者は大変なのです。

 その後、私も周りの修煉者たちに技術を教えるようになりました。そこで、ある問題に気づいたのです。その問題とは本当に真剣に取り組む人が少ないことです。極端にいうとおおよそ10%の人しか真剣に取り組みません。10人に教えてもせいぜい1人が真剣に最後まで勉強したら、喜ばしいほうです。大多数の修煉者は好奇心や趣味や投機的な心理状態でやってくることが多いのです。前者は好奇心がいったん満足するとさらに仕事が進まなくなり、後者は投機的な心理状態で技術を見てしまうのです。投資が大きく、短期間に効果があまり見えないと諦めてしまうのです。経験上、後者のほうが比較的多かったのです。それで、私も教えることに自信を失いました。修煉者たちの最も基本となるのは修煉に対する態度と認識です。これらはいくら技術を伝えてもかえられないものです。もし、教える相手の心性が追いついてこないなら、自分の修煉にすら影響してしまうのです。

 あるとき、1人の修煉者に技術を教えていました。学法や煉功する時間も惜しんで徹夜で技術を教えました。しかし、勉強した知識をすぐに復習しないで、数日後になると自分の取ったメモすら理解できなくなって、また私に聞きに来るのです。最初は嫌がらずに一から教えましたが、また同じようなことを繰り返してしまうのです。練習したかと聞くと、返答は忙しくてできないとのことでした。毎日毎日いっぱい法の勉強をしていると言っても、ほかの修煉者が1年間でやる法の勉強はあなたの1カ月分にも及ばないかもしれませんが、彼らの1カ月の仕事量はあなたの1年分よりも多いのです。それでも時間がないというのですか? と心の中で思いました。

 時には我慢できずにもっと真剣にやりましょうと言います。常人は数年かけて勉強する技術なのに、私たちは短時間で勉強して、実際にやらなければならないのです。しかし、相手は自分が並はずれて優れているので、必要なときには大法がすべてをくれるなどと、のんきに言うことが多いのです。大法はあなたに借金でもしたのですか? と思いました。必要なときにくれるなんて、自分は努力したのですか? 自分の心性や威徳はそのレベルに達しているのですか? このような状態が続いたため、教えることをやめました。その後、彼はまたほかのところに技術を習いに行ったそうです。当時、私は彼のある執着心に気づいていました。それはお互い修煉者であり、教えるのに条件などを問わないと頼りきっているのです。それで、勉強できるチャンスを大切にせず、とうとう時間がなくなり、自分でまたほかのところまで教わりに行く羽目になるのです。私は前から、勉強後すぐにでも練習を始めて、わからないことがあったら聞きにきたほうがよいと助言しましたが、本人はまったくそのようにやりませんでした。いつも少ない努力で多くの成果を期待しています。奇跡が起きてすべてが解決するのを期待しているのです。私たちの修煉をしっかりしないままで、最後に急に悟りを開いて、功が上がることを期待することと同じだと思います。

 いわゆる技術のエキスパートたちがその技術を手に入れたのは天才だからでなく、数え切れないほどの徹夜の努力によると私にはわかるのです。本気で真剣にやりだすともう何もかもかまわずに突き進むのです。本当に技術の道に進む修煉者なら、このような心構えが必要だと思います。師父の説法の中でもあったように、もともと文字も読めないおばあさんが文字を読めないことで苦しみ、法を得られないことを心配して、それでもずっと法を読んで、そのうち眠りに入ったら、そのとき、法が一つ一つの金色の文字になり、頭の中で飛び回り、起きると不思議に文字を読めるようになったというのです。これは真剣にやったからではないでしょうか? 師父の説法ではまた宇宙の一部の生命の修煉方式を技術であらわすとも言われました。心性が上がるとともに技術レベルも向上するようです。技術を絶えず追求する修煉者もこのような局面に遭うことがあります。師父は人の念が一カ所に集中すると丹ができると言われました。技術をやる修煉者たちが長時間真剣に取り組むと必ず成果が見えるのと同じ道理だと思います。

 私は最近多くの修煉が技術面で現れてきました。技術に携わった当初から「他人の助けを待たない、頼らない」をモットーにやってきました。できるだけ自分で問題を解決して、どうしても自力で解決できないときに人に聞きに行くことにしています。これも自分やほかの修煉者に対する責任感の表れです。師父もきっと私のこの考えをみて、それに合わせて知恵をくださったと思います。最初はオイルインク印刷機の操作から修理へ、周辺地区の修理へと進み、だんだんと複雑な機械の操作や修理に携わるようになり、それからパソコンのトラブルを解決できるようになり、周辺地区のプリンターの故障修理にまで携わりました。その中で、1台のプリンターの印刷ヘッドが焼けたとき以外にメーカーの修理に送ったことはありませんでした。最終的にあらゆる部品に関しても直接メーカーに問い合わせて、数百台のプリンターの修理費用の数万元(数十万円)を節約することができたのです。いくつかの問題においては本当にプロでないと修理できないと言われていました。ある日、大型の一体型印刷機が壊れて、メーカーの技術者と話すと、マザーボードが壊れているといわれ、修理するだけで4千元くらいかかるといわれましたが、自分の判断で修理してみたところ、100元強で直すことができたのです。

 この1、2年間はほとんどの時間はプリンターの修理に費やしました。小型資料点の普及の需要に応じて、技術面でのサポートも欠かせなくなったのです。修理台数の増加に伴い、自分の技術も「神業」に近づきました。プリンターの電源を入れると十中八九故障の原因がわかるのです。多くの場合はその故障の現象を聞くだけで判別できました。常人から見るとこれは一種の経験ですが、身をもって感じたのは一種の功能です。修煉者が念力で悪人を固定させることと同じように、頭脳で考えたわけではありません。パッと自然に声となり、大した技術的判断をしないのに、正確に言い当てられたのです。表面上では周りの修煉者たちのために多く時間が使われたように見えますが、本当に衆生のために力を尽くすと、師父が失ったすべてを償ってくださるのです。技術面で得たもののすべては師父からいただいたもので、私はただ常人の心を除去しただけです。自分という観念を捨てれば捨てるほど、知恵がどんどん湧いてくることがわかりました。

 ある資料点の大型一体型印刷機が壊れました。私が駆けつけたときすでに、一人の技術的知識を持つ修煉者が一通り修理して諦めていました。私が電源を入れて聞いてみると、ガラガラと音がして、確かに修理しにくそうでした。ばらしてみたのですが、それでも問題を発見できなかったのです。以前、ほかの修煉者になるべくばらさないようにと言われたことがあります。また、今回は初めて全部ばらしたので、緊張しました。そこで、頭を空っぽにして、一つまた一つと部品を組み立てて、「師父!」とつぶやきつつ、組み立てを完了させました。もう一度電源を入れると音が消えて、なんと直ったのです。もともとの修理なら、あらゆる調整点を再調整しなければならないところでした。しかし、組み立てた印刷機はまるでプロが調整したようでした。奇跡としか思えません。これは功能の人間社会での現れだと感じました。しかも、わずか2時間以内で起きたのは、本当に不思議でした。

 その後、設備の修理の時に、自分が技術について詳しい修煉者ではなく、普通の修煉者だと感じるようになりました。時には技術すら忘れてしまうこともあります。それでも気がつかないうちに今まで出会ったことのない問題を解決することができたのです。すべてが自然で落ち着いていました。多くの技術の難点が自分の技術力を超えたものであるのに、不思議に解決してきました。これまで経験した常人の科学とは大きくかけ離れているように思いました。常人たちはいきなりその技術の世界に飛び込んでしまいますが、私はまったくその世界に入っていなかったのです。

 (続く)

 2008年5月12日

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2008/4/27/177108.html