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7年間の資料点での生活から見た私の修煉の歩み(四の下)

(明慧日本)全体的にこれだけ多くの同修がずっと「他人が動くのを待ち」、「他人に頼る」のを見て、私の気持ちはとても複雑です。正直に言って、現在、在宅の同修が置かれている環境は当時資料点の同修がいた環境に比べると本当に雲泥の差で、100倍もよくなったと思います。当時大きい資料点を設立した時、自分を引っ張って前に進む同修がいること、設備まで買ってくれる同修がいることは、何より有難いことでした。私が初めてパソコンに触れた頃、パソコンを届けに来たある地方の同修は数十分間しか滞在せず、大体の操作方法だけを私に教えて、すぐ帰りました。その後、その地方の協調人が逮捕されたため、私とこの同修の連絡も途絶えました。それからこのパソコンの使用とメンテナンスは全て自分自身に頼らなければなりませんでした。

 最初パソコンが故障した時、自分でしばらく解決できないまま、一方、真相資料がすぐにも大量に必要とされていました。その時の気持ちは重病にかかったように、心身ともに大きなプレッシャーを感じ、意気消沈しました。当時周辺のいくつかの地区にパソコンはこの一台しかなったので、退路を絶対考えてはならず、ただひたすら前に進まなければなりませんでした。目の前に技術ができる同修がいて、私に何かを教えてくれることを夢にまで見ました。一方、今私は同修の小型資料点の設立を手伝う時、技術を彼に教えても私に対しては配慮をしてくれません。資料点の設立を手伝うのも、彼の都合に合わせなければならないので、まったく資料点の設立は彼の恩を借りて、彼にお願いをしたかのようでした。設備のメンテナンス、消耗品の提供など全て解決してあげなければならないし、問題が出るとただ私の来るのを待っているだけです。それにしてもまたここが難しい、そこが難しいとよく口にします。これは常人の変異した思想ではありませんか?

 私はいつも自分及び他の資料点の同修が歩んできた道を思い出します。当時あれだけ困難な環境でも、難しいと言う同修はいませんでした。当時あれだけ仕事が多くても「待ったり、頼ったり」する人がおらず、みんな競って仕事をやって、互いに相手のことを考え、ひたすら前に進みました。これを話すのは資料点の同修を褒めて他の同修を見下しているのではなく、これは真実なのです。「待ったり、頼ったり」する同修を当時の環境に置けば、恐らく今日まで続けてこられなかったと思います。彼らの修煉のレベルが低いと言っているのでなく、彼らは正法時期の大法弟子とは何かをまだ分かっておらず、私心があまりにも大きいからだと思っています。

 最も明らかな事実は、自分の家庭と事業のためには心血を注ぐことはできますが、大法の仕事は自分の本分を超えるものだと思っているようです。自分の事と大法の事をこんなにもはっきり区別しています。自分の家事と事業は一分一秒も遅らせてはならないのですが、大法の事はいくら遅らせても気にしないで、いい加減にやっています。師父が言われた「どんな事をしていても自分が大法の為にやっているとか、大法の為にどうすべきとか、大法の為にどのようにすればよりよく行なえるのかなどとは全く考えていないのです。自分を大法の中に置き、大法の中の一つの粒子として、何かをしているとき、それは私がすべき事だと思ってしています(『導航』)」と大いに違います。

 正法が最後の最後の時期にきている現在、私達は自分の修煉に対してこんなにも無感動です。これは全ての大法弟子が熟慮すべき問題です。正法の最後の現在、邪悪は依然としてこんなにも猖獗を極めており、殺される同修の人数は依然として毎日毎日増え続けています。これが、私達が法を実証する道とでもいうのですか? この背後に私達の永久に変わらない消極的な心理以外に、またどのくらい同修の「人心」と「人の状態」が邪悪と迫害に手を貸しているのでしょうか?

 書きたいことは多いのですが、ここまでにします。言い方が失礼かもしれませんが、自分にも他人にも責任のある発言をしたいのです。数年前に私が師父の説法から悟ったことについて話したいと思います。師父は「玄関設位」を説かれた時、玄関の最後の関は「命門」といって、命門を破らなければ、丹の功能が放出できません。命門は幾重にも重なっている鉄の門のようだ、と言われました。私は、命門は命の扉のように、そこから出ると生きることが出来、出られなければ死んでしまい、出られるかどうかは、修煉者が私心を捨てられるかどうかと同じことだと悟っています。師父は、「命門は人体できわめて肝心かつ主要なツボです。道家はこのようなツボのことを『竅』と言い、われわれはそれを『関』と言っています。主要な関所なので、まるで鉄の門のようで、幾重にも重なっている鉄の門みたいなものです。皆さんもご存じのように、身体は幾重にも重なったものです(『転法輪』)」と説かれました。いつも師父のこの意味深いお話を思い出すと、気持ちが重くなります。師父のこの話の中に真に修煉する弟子に対する要求が説かれ、その要求はこれほど高くてこれほど正しいので、私は心の中に幾分の重責を感じています。

 これで私はようやく表面の現象に戸惑わなくなり、一目で生命の変異の根本原因—「私」を突き止めました。修煉者が持っている執着の現れは様々なのですが、実はみんな「私」に由来しています。人の智慧と私心は同時に存在しているもので、相生相克の関係にあるかもしれないので、人が持っている智慧の限界は決して彼の「私」の極限を越えることはできないと思います。しかし、人間はよくここを見極めることができません。「私」は旧勢力を含むすべての生命体の終結と厄運で、神に懲戒されなくても自分が持っている「私」は充分自身の生命を解体させることができます。一方、神が下した懲戒は、他の生命体に因果報応を示すためのもので、同様に神の偉大な慈悲でもあります。

 私はこれを理解し、まだ自分は修煉の基準に遠く及ばないと自覚しながらも、時間もこんなに迫っていることを思えば、本当に怠けることはできません。この緊迫は時間の概念で測れるものではないと感じます。

 一方、多くの同修は当然のように、または慣れているから気づきもしないまま多くの時に「私」を修煉の範疇に入れないのを見て、私は何も言いたくなくなり、また何をどう言うかが分からなくなります。修煉はまさに遊びごとではありません。

 私は、修煉の中で自分が担っている仕事から、「私」の様々な現れを上述のように考えました。実は全ての現れの背後に「私」が邪魔をしているのではありませんか? 今日に至っても、まだ修煉初期のままで自分が抱える問題を大法に解決を求めるために修煉している人がどれだけいるでしょうか? 資料点の同修ばかりに資料の提供を任せる人がどれだけいるでしょうか? 迫害を恐れて自分がするべき仕事を他の同修に押し付ける人がどれほどいるでしょうか? 若くて知識と能力を持っている人が理由を探して、小型資料点の仕事を、あまり能力を持っていない高齢の同修に押し付ける人がまだどれだけいるでしょうか? 自分でも必要とする師父の経文さえ、協調人が家まで運んでくれるのを待っている人がどれだけいるでしょうか?

 こんな状況が何年たっても改善が見えないのは、一時的な問題と言えるでしょうか? こんな状況を師父自らに指摘されるまで改善できないのでしょうか? 私は誰かを非難しているのではなく、ただ問題を説明しているだけです。修煉はもともと自分の意志で決めたことだからです。これらの問題が反映した人心を取り除かなければ円満成就できるでしょうか? 自分に聞けば答えはお分かりでしょう。困難や執着は、根本は「私」の一文字に過ぎません。

 自分の精進が足りないながら時間もないため、この文章は8カ月もかけてようやく書き上げました。事前に計画も立てておらず、一気に完成しようとも思わず、ただ思い付く度に書いたのです。安全を配慮するため、そのうちの一部の人と事はすでに修正の筆を加えました。私の書いたことは同修に対して参考になるとも言えませんが、皆さんに、私自身も含めて新たな反省を引き起こすことを望んでいます。

 一つお願いがあります。すべての同修にこの文章を読んでほしいのです。この文をすべての大法弟子に捧げるプレゼントにしたいのです。私の心性にまだ高めなければならない部分があるため、言葉上不適切なところがあると思いますが、同修のご理解を願います。同修の「人心」を暴き出すのも現状そのものに即して話しているだけで、対人的に悪意はありません。自分の修煉はたくさんの同修に比べれば恥ずかしいぐらいだと思う気持ちが正直のところです。誰にも「人心」があり、誰にも不足があり、今日まで歩んで来られたのはすべて師父と同修の助けと激励のお陰です。師父にまず感謝すべきで、その次に同修に感謝します。すべての大法弟子が円満成就できると、私は信じます。私が大法の仕事の中で少しよく出来たのは、自分が一歩先に動き出しただけで、他のところは皆さんと違いがありません。もしすべての同修が早く前に一歩進めば、私達全体はきっと円満成就の境地に向かって千歩も邁進できると思います。

 師父の慈悲に感謝致します。同修の無私な関心に感謝致します。

 (終わり)

  2008年5月15日

(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2008/4/27/177108.html