二言三言:学法の効果
(明慧日本)修煉する人なら学法が最も重要であることを誰でも知っています。しかし真にそれを認識し、実際に行動に移すことは、誰にでもできるとは言い切れません。少なくとも私はまだ実現できていません。
誰でも「心が静かでなければ法を学んでも意味はない」(『精進要旨』「猛撃一掌」)とはっきり知っていますが、心が静かにならないまま、学法していることがよくあります。心が静かでなければ『転法輪』をたとえ一回読み終えたとしても、心を静めてその中の一字を学ぶことに及ばないと思います。前者は何も得ていませんが、後者は少なくとも一字の法を得たのですから。学法して心に入れば、「正邪を識別して、真の経を得て、その身を軽くし、その智慧を豊かにして、その心を充(み)たして、法船に乗って悠々としています」(『精進要旨』「悟」)。何がその心を充(み)たすというのでしょうか? それはほかならぬ法です。心が法で充たされたとは、どんな状態なのでしょうか?
長い間、学法の効果が良くないとき、私にはこのような情況が現れてきました。同修の見たほかの空間のものとか、輪廻の物語を喜んで読み、特に小説「蒼宇劫」はさらに私の心をしきりに揺り動かし続けました。なぜなら彼らの文章が起こした効果が学法を上回ると感じたからでした。ひいては常人のいわゆる善念の作用の下で、彼らを美化し、模範としました。しかし大法弟子の正念と正しい行いは法からくるのではないでしょうか? 本末転倒してしまいました。自分に対しても、彼らに対してもよくなかったのです。少し厳しく言うと、褒めるのも同様に殺すことです。
最近学法して一つ体得したことがあります。心を静めて学法すると、ほとんど一つの段落毎に、ほとんど毎日のように、新しい収穫があり、法は学べば学ぶほど大きくなってきました。学法の興味も増してきました。もちろん一字一字の天機の程度は同修の実証に比べてまだまだかけ離れています。
ときには邪魔がとても大きく、心が静まりませんが、そのときは一字、一字を真剣に、はっきりと読み、一字、一字の意味を理解するようにすると、ゆっくりと心が静まってきます。まるでねじのように、正確な糸口を見つけると、その効果を感じます。学法ではその心を充(み)たす感覚を覚えられます。自分のエネルギーをも充実させていることになります。
もう一つの情況も学法を邪魔します。ある日学法していると、突然とても恥ずかしく感じられ、パソコンの画面に表われている法を見ることができず、本当に下を向いてしまいました。内に向かって探すと、自分が法の中から何かを得ようとする、私利私欲の願望を抱いていることを発見しました。その心を放下すると、また法に向き合うことができました。
2008年5月22日
(中国語:http://www.minghui.ca/mh/articles/2008/5/16/178563.html)
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