日本明慧
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修煉の大道を歩む


 文/大陸弟子 小鳳

(明慧日本)問題が発生した時、いつも内に向かって探すと、たくさんの「人心」を発見できます。物質の本源は更にミクロの物質から構成されたものなので、低い次元の空間、表面の空間など、どの次元にも名・利・情及び派生した各種の心があるということになります。したがって名の中にも名・利・情があり、利の中にも名・利・情があり、情の中に名・利・情があるのです。その表れは、それぞれが個々にあるのではなく、執着心も単独では存在していません。普通の場合一つの問題はいずれも同時にたくさんの心を反映し、その心はまた各種の心から構成されており、最後に集まって私心となるのです。

 私はそのよくない私心をなくそうとしました。これほど多くの心、これを放下しあれも放下しようとしましたが、無くすこと自体は本当に難しいと思いました。例えば、私は今悲しんでおり、悲しむまいと思ってもやはり悲しんでおり、こうするべきでないことも知っており、これは情だから無くすべきだと思うものの、やはり取り除くことができませんでした。だが、交流を通じて心が豁然として明るくなりました。突然、自分のこのような状態はあの小道修煉のように、ずっと一つの枠の中で回っていると悟りました。師父は「大道は至簡至易である」(『大圓満法』) 、「真ん中だけが大道(だいどう)なのです」、「大局に目を向け、堂々と修煉すべきです」(『転法輪』)と言われました。

 それでは私達にとって、どのようにすれば大道修煉ができるのでしょうか? 真ん中だけが大道であるという、真ん中とは何でしょうか? 大局に目を向けるとは何でしょうか? 我々正法時期の大法弟子は師父について正法するという誓約があり、衆生を済度する使命と、大法を実証する責任があると思います。これが真ん中の大道なのです。これこそ私達がいろいろな情況下でもすべて大局に目を向けることなのです。この最も正しい正念があれば、すべての執着を放下することができ、すべての邪悪が自ら消えるのです。

 この点まで悟ったら、どうして自分がいつもこの心あの心に直面してはよくないものを取り除くことができないのかと悩む原因が突然わかりました。普段その執着心を本当に取り除くことができず諦めて、それより本を読もうと思いました。結局本を読むうちに、本の中から私の執着心の問題に関した内容を読んだわけでもないのに、ただ読むだけで、私の心は大法に溶かされて、衆生を救いたいという思いが自然に湧いて来ました。この時さきほどの執着心を考えてみると、意外にいつの間にかすでに薄くなり或いは消えてしまっていたのです。これは私が真ん中の大道を歩んだので、この次元を突破し、それによってこの次元の上に存在していた各種の心もすべて同時に解体されたのです。もともとは同じ修煉のようですが、しかし実はいつも一つ次元の異なる角度をぐるぐる回っていて、迂回して苦しくなり、とても疲れて、突破も進まなかったのでした。

 『2004年ニューヨーク国際法会での説法』の中に、「弟子:私は意気消沈の状態に陥りやすいのです。生命の中の最大の苦痛は孤独であり、家族の暖かさはありません。この孤独感にもたらされた苦痛をなかなか取り除くことができません。・・・ 師:業力によるもの、または妨害であれば、根絶してください。一つの生命として、当時大法を得たときの興奮、誇り、他の人が得られませんが、自分が得たという感覚はなぜ今なくなったのでしょうか? 精進していないのではないのでしょうか? そうではありませんか? 真相を伝える中で忙しくて、自分の気持ちを感受できなくなったのも、大法のことと衆生を救い済度することを行う中で、そうなったのです。なぜ孤独を感じるのでしょうか? 衆生を救い済度し、大法弟子が行うべきことを行っていれば、決してこういう気持ちはないはずです。法を勉強し、精進している中で、どうしてこういう気持ちを感じえるのでしょうか? 精進していないから、常人の気持ちを感じる暇があるのです。そうではありませんか?(拍手)」と書かれています。

 私は、普段どんな人心があらわれても、すぐに自分の使命と責任を思い出し、この一念を守って動じないようにすると、これは万能の鍵のようにいかなる執着も、いなかる邪悪とほかの事も、正念の前に自ら消えてなくなるのです。

 この文章を書いた目的は、もし私と同じ問題に皆さんが直面し、間違いと分かっていてもだらだらと放下することができないとき、この方法を試してみて欲しいからです。はっきりと頭の中で何回も自分が正法時期の大法弟子であることを認識し、自分の使命、自分の責任、自分の誓約を思い出すのです。この正念が強くなれば、執着は自然に解体されるのです。(もちろん、この方法は例えです。しっかりと正念を守れば執着心を取り除くことができますが、しかし執着心を無くすために正念を守るのではありません、さもなければ正念とは言えなくなります)。

 個人の悟りであり、妥当ではないところはご叱正ください。

 2008年6月10日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2008/5/27/179202.html