私を取り除いて初めて執着を放棄できる
文/大陸大法弟子 浄蓮
(明慧日本)私は非常に内向的な人です。自分がよくできていないとき、または人に不足を指摘されたときいつも恥ずかしく思います。そして自分が自分を責めたり、考えの中でいつも繰り返し責めていました。嫉妬心、顕示心、虚栄心など絶えずそこに出てきました。すべてのこれらの良くない人心は、つまるところ「私」に由来するものです。
さらに深く掘り下げてみればなぜ嫉妬するのでしょうか?なぜなら相手が私より強い、良くできている、私は不服と感じ怒っています。なぜ顕示するのでしょうか?なぜなら私は他人よりできているから、他人がそれに気づかないのを恐れて、気づかそうとしたくなるからです。もし「私」がなければこれほど強い執着心はまだあるのでしょうか?
ひいては私は時々知らないうちに「私」を行動の原動力と勘違いすることがありました。自分にとって利益あるものは積極的に行ったり、私利・私欲を満たしたとき、非常に喜んでいました。自分に利益をもたらさないものは進んでやろうとせず、やっても楽しくありません。私が何かをしようとするとき、なぜそれをしようとするのか、最終目的は何なのか、いずれも私の要素が入っています。つまり、旧宇宙の生命の源にも「私」が溶け込んでおり、私たちも「私」を持って修煉の道を歩み始めたのです。
常人の長い間留まると、後天的に形成された私利・私欲の観念が、自分の心の最も深い所に溶け込んだことに気づき辛いものです。そのため修煉の中でさまざまな欲望を取り除くのは、非常に大変で辛い過程です。法を暗記することで私は、ロサンゼルス市の説法の中で「修煉はとても複雑で、人心を取り除くことは最も難しいのです。内に向けて自分を多く探してください。ひたすら自分の心を探すのです」の法理のことを思い出しました。内に向けて探し、法に則って自分の言動を収め、初めて「私」のためにある旧宇宙の基本要素を取り除くことができます。
「私」の要素は、様々な方面において現れます。例えば社会の中で、家庭の中で、同修の中で矛盾が生じたとき、「私」のために争ったり、嫉妬心、顕示心、聞こえの良い話を聞きたがるなどたくさんあります。師父のオーストラリア法会の一節を見て私は大変感動しました。法を暗記する中で師父は何度も私に自分のいる次元を悟らせ、絶えず啓示を与えてくださり、それによって私は自我を擁護するための執着を放下し、変わり始めました。命の根源からの変化は言い表しがたいものです。私は「私」のための観念がますます弱くなっていき、善の心が出てきたのを感じました。私はさらに旧宇宙の理の中で生きることで、私心が強まり、それによってもたらされた変異の恐ろしさを感じました。そして慈悲なる師父が法を正し、衆生を救い再度し、宇宙の衆生が法を得させるため巨大な難を背負ってることを感じました。私は決して師父の慈悲なる済度を無にせず、人心を放下し、大法を実証し、衆生を救い済度する最後の道を歩みます。
2008年6月11日
(中国語:http://www.minghui.org/mh/articles/2008/6/7/179785.html)
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