日本明慧
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神韻芸術祭を広め、広告の営業で体得したこと


 文/Linda Jin(アメリカ・ロサンゼルスの大法弟子)

(日本明慧)ご尊敬申し上げる師父、こんにちは! 同修の皆さん、こんにちは!

 私が法を得たのは1997年の年末でした。はじめは、修煉とは何か、どう修煉すればよいのか分かりませんでしたが、1998年3月のニューヨークでの交流会を通じて、同修たちが学法と修煉により体得したことを聞いて、初めて法を学ぶことと心性を修めることを知りました。瞬く間に10年が過ぎていました。修煉の過程において、時にはよく出来、時にはあまり出来ませんでした。しかし、ずっともっとよく出来るように努力してきたつもりです。

 この場をお借りして、この数カ月かの間、神韻芸術祭を広め、広告の営業に回って体得したことを皆さんと交流したいと思います。

 辞職

 昨年の9月、ロスアンゼルスでの公演はすでに決まっていました。4回に亘る公演のチケットの総数は約2万5千枚で、おおよそ2006年の公演の4倍です。一人のロスの弟子として、重責を感じながら、仕事を持っているため、自分のやりたい正法のことに全力を尽くせないことをとても苦しく思っていました。

 アメリカに来てはや15年です。最初の実験室で働いた3年間を除いて、後の12年間は偶然のことからセールスの仕事に携わっています。その間、あるプロジェクトのセールスで際だった成績を出したこともありました。最近この仕事を持って3年になり、会社の規模は大きくなく、社員は10人前後です。法輪功の真相はほぼ伝えているのですが、これより前へ一歩進むことはかなり難しい状態でした。職場の同僚も日に日に仲睦まじくなっていくため、心性の衝突もあまりありません。不景気になり、会社が暇になると同時に、私の仕事もかなり減りました。それに子供が大学の寮に住み始め、手が掛からなくなりました。

 同修たちは何度も交流して私に、師父の大紀元への要求と期待を教えられたことがしばしばありました。「大紀元は損益に関わらず自ら責任を負えるような良性循環にならなければなりません」。この師父の助言は大紀元の修煉の過程で正しく歩むための手助けとなり、それは法の基準で、そして、これは必ず達成しなければならないことだと認識しました。出来るかどうかは我々の修煉上の問題です。即ち、広告の営業を専業にしても、修煉さえよく行えば、普通に収入を得ることが出来ると悟りました。したがって、大紀元の広告の営業に回ることは当面の私の専業にすることができるということです。そこで、辞職する決意をしました。

 私の辞職は会社や家族、今までの生活に支障をきたすことはないと知り、この行動は極端に走る行動ではないと悟りました。頭の中の整理は出来ているはずですが、湧き出てくる人心が意志を動揺させました。自分はこの仕事に向いているのか? 師父は私にこのような道を按排されたのか? 万が一上手くいかない場合は生活はやっていけるのか? など。躊躇している自分は、間違って悟っているのではないかと恐れていました。その時、ある同修が私と交流してくれました。彼女は、師父は法を明らかに説かれています。現在は悟る時ではなく、法に従って実行する勇気があるかどうかの問題です。法の基準に達していれば、あらゆる面において、活路が切り開かれるはずです。法の中に用意されている全てのものは、私たちが実践する過程で展開するはずだと私に言いました。同修の話で迷いから覚めました。以前、法に則って実践する時は、石を伝い歩いて川を渡るような感じで、自分の損得にばかりこだわり、進路、退路を熟慮してからようやく試しに行動に移し、順調ならば続ける、だめなら元の道に戻るような状態でした。法を大切にしていない自分に気が付きました。私の修煉は勇猛さが足りなかったのです。修煉への信念の確固たる意志が足りなかったのです。

 そして、私はこれらの人心を放下して、仕事をスムーズに辞めることが出来ました。実際のところ、ただ仕事を変えただけに過ぎません。

 二.マスコミ業界同士とのやり取りで協賛を探す

 マスメディアの協賛は公演の宣伝に重要な役割を果たしています。どのようにしたらよいのか、サンフランシスコのマスメディアの協賛に回っている同修との交流で、おおよそのやり方が分かりました。私たちには資金がないのですが、しかし、私たちは新聞社、テレビ局があって、これは私たちの資源で、財産なのです。偶然にあるトラベル展示会に参加した時、ある種族系統のメディアに出会いましました。その中にタイの新聞社やテレビ局、フィリピンと日本のテレビ局、新聞社、雑誌の出版社もありました。直ちに、タイの新聞社の編集長に会いました。神韻公演のパンフレットを持ち出して、私たちは世界で一番大きなネットワークテレビ局、多元化文化の交流、協調を促進することが私たちの使命であることを彼に説明しました。間もなく、国際的レベルの純粋な伝統中国文化の公演の開催が決定したことも彼に知らせ、この公演を成功させるために、彼に協力を求めました。この公演は中国人の観客のためだけでなく、全世界の全ての民族に配慮したものです。彼らの影響力のあるマスコミの力を借りて、この貴重な公演をタイの人々に知らせれば、きっと気に入ってもらえるはずです。

 彼らも多元文化の交流と協力の促進に私たちと同じように関心を持っていることに気付きました。往年のスチール写真を見た編集長は即座に支持したいと言い、連絡を取ってほしいと告げられました。数日後、約束どおりテレビ局と新聞社の担当者に会い、さらに詳細な打ち合わせをしました。彼らに公演のプロモーションDVDを見てもらいました。担当者らは真剣に見終わってから、光り輝く喜びの表情にあふれ、この公演は特別なものだと感じたようでした。

 この公演が彼らの心に触れたことは明らかでした。これで契約することになりました。彼らのタイのネットワークテレビ放送ではほぼ1時間おきに公演のコマーシャルを流し、それは2カ月も続きました。彼らの新聞社も引き続き半面を使い公演のカラー広告を掲載し、その宣伝はずっと神韻公演開催前まで続きました。また、公演前に、彼らのテレビと新聞社は神韻公演を特別テーマとして報道しました。

 初公演の日、私はあの支援してくれたタイのメディア関係者を招待して、公演を鑑賞してもらいました。彼らは、神韻公演は素晴らしい、今まで見た中で最高だったと口を揃えて称賛しました。

 タイのメディアとのやり取りからヒントを得て、他の地区のローカルメディア、白人が多くいる地区の新聞社にも当たって見ました。これらの特殊なメディアやローカル新聞社は特別な影響力を持っていることが分かりました。多くの場合は大手のメディアも及ばないような効果を齎します。その上、私たちの方の掛かった費用はゼロでした。

 三.広告の営業に回りながら人々を救う

 広告の営業を専業としてやっていこうと決めた時に、心の底に大きな喜びを抱きました。何故ならば、営業を通じて社会の商業階層に広範囲に接触することが出来るようになり、真相と福音を彼らに伝えることができるからです。

 私の初めての客は中華料理のレストランでした。そのレストランは福建省から移住して来た人たちが経営している店で、オーナーは温厚で、穏やかな人ですが、法輪功については殆ど中共政権の偽りの宣伝しか知りませんでした。商談と同時に、徐々に真相を伝えていくうち、彼らの一部の人たちは真相を受け止め、3千ドルの広告契約金を支払い、神韻公演を支持するようになりました。

 営業の電話をかける過程においても依然として、数多くの華人は共産政権の邪悪な本質を未だに見破れず、大紀元新聞を拒否しています。人を救い済度することは本当に大変難しいと感じ、私たちのセールスチームに巨大な慈悲と絶え間ない犠牲が要求されていることを認識しました。

 四.広告の営業をしながら自分自身を修める

 1997年の末に法を得てから現在まで、もう10年余りです。トラブルの起きない時は、自分の修煉状態はまずまずだと思っていましたが、大紀元に勤め始めてから2カ月、私の全ての執着心は容赦なくぶつけられました。もう無理だと思い込んでしまい、四面楚歌でした。広告の営業は全過程において、常人の中でのあらゆる能力に関連します。しかし、私は最も常人の能力に欠けている人間で、営業の難しさと心性上の試練が同時に訪れた時に、どのようにして残りの道を歩み続けるのか、一時分からなくなった時がありました。

 元の会社に戻ることも考えましたが、メンツが丸つぶれになるのではないかと気掛かりでした。それに、もしこうなれば大法に泥を塗るのではないかと感じました。しかし、またもや収入の減少と経済的に家庭にかけた負担に執着してしまい、とにかくいろんな人心が沸き起こり、執着心が生じ、プレッシャーに押し潰されそうになりました。その時、冷静に自分に学法を強いて、法の基準で自分の選択を判断してみました。すると、あの私の所謂プレッシャーと辛さは執着の心を切り捨てられないため生じた虚像に過ぎず、本当の現実ではないことに気付きました。

 繰り返して師父の経文を黙読しました。「万事執着無ければ却下に路自から通ず」、前へ進む道がないと感じたのではないでしょうか? ならば、師父がおっしゃったように、全てを放下して見ればどうかと、心の変化に伴って沈んでいた気持ちも楽になり、2週間も笑えなかった私に再び笑みが浮かぶようになりました。振り返ってみて、これらの難儀は皆良いことではないでしょうか? 失ったものは全部悪いものではないでしょうか? なぜ喜ばないのでしょうか? 現在、自分が修煉を始めたばかりだと認識できたため、「大紀元」という修煉の出来る場所をとても大切に思います。お互い同修の間は学んでは比し修して比すれば、修煉の途上で飛躍的に精進することが出来ると思います。

 師父、有難うございました。

 皆さん、有難うございました。

 2008年6月23日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2008/3/25/175043.html
(英語:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2008/4/3/96036.html