「心が動じない」について 文/大陸の大法修煉者
(明慧日本)いつも「心が動じない」ことに言及する同修がいます。99年7月20日から今日まで、邪悪の深刻な迫害に直面して、師父は大法弟子を導いて、難関の一つ一つを乗り越えてこられました。師父の慈悲な加護のもとに、大法弟子は師と法をかたく信じて心が動じることなく、私達は今日まで歩んできました。
最近、「心が動じない」ことに言及する同修が言うのは、他の人に何を言われたかを気にせず、自分は「心が動じない」ことをしっかり守ります。他の人に問題があると言われたら、心が動じると邪魔されたのではありせんか? 修煉は自分を修めることです。ちょっと聞くと、法に基づいているようですが、注意深く考えてみると、そうとは限りません。ある同修は他の人に指摘された自分の不足と存在する問題に対しても、皆「心が動じなくなり」、内に向かって探さなくなり、更に法をもって自分を照らし合わせて、根を掘らなくなりました。
更にひどいのは他の人に自分が邪に悟ったと言われても、「心が動じることなく」気にかけません。心を静めて、自分の認識が法からそれているかどうかを照らし合わせないだけでなく、また「どんなに他人に悪く言われても、私は心が動じない」と言います。自分の「心が動じない」ことが高く修めていることだと思っています。
このような「心が動じない」ことは自分の深く隠されている人心に触りたくなく、内に向って修めたくない「心が動じない」ことです。表れたのはわがままで、何を言われても、ひたすら相手にしないことです。
他の人が自分の問題を指摘する時「心が動じない」、同修が魔難の中で苦しんでいて、助けなければならない時に「心が動じない」、衆生と世間の人が淘汰されることに直面する時も「心が動じない」、これが正念の体現なのでしょうか?
私達は法を正す時期の大法弟子であり、師父は私達にもっと大きな責任、もっと高い次元、果位を与えてくださいました。私達は私達の使命と来た時の誓約を完成させる中で、絶えず精進して、もっと高い次元まで突破すべきです。一つの境界の中で止まって、「心が動じない」ではいけません。その陰で強大な執着心があるかもしれません。『転法輪』の中で師父がおっしゃったように、4、5人の大覚者、大道は、停滞した水のように静かになっていて、表面から見ると、完全に無為で空ですが、しかし宇宙の法が正され、大穹が再び造られ、衆生が皆必ず大法に同化してから、初めて未来に入る特殊な肝心な時期には、彼らが表した「静か」な背後には、法を正すことの不理解が隠されているかもしれません。
本当の「心が動じない」ことは、修煉者が師と法に対する意志を固め、かたい自信を持つことであり、いつも法をもって自分の言行と照らし合わせて、自分の全ての念をとらえて、途切れなく内に向かって探し、内に向かって修め、精進する心が動揺しないことです。大法の弟子として、問題と対立にぶつかる時、修煉者として師を信じ、法を信じる神の心(正念)をもって、執着して取り除かれにくい人心を掘り起こし、そして正念をもって徹底的にそれを一掃することです。
個人の次元での悟りですので、不足するところは慈悲のご叱正をお願いします
2008年6月28日
(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2008/6/26/180929.html)
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