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条件付きの「季布の一諾」

—神韻公演での体験談


 文/シアトル大法弟子

(明慧日本)地元での神韻芸術団公演のために4カ月準備してきましたが、開演の2日前までまだ時間が足りないと感じていました。ずっと公演チケットの販売を集中してやっていましたが、自分の内を探ってみると、条件を踏まえての奉仕だと思いました。例えば、仕事の手配人は仕事を振り分けるとき、勤めている自分に振り分けられた分はやり遂げられないと言い訳していました。あるとき、カリフォルニアのある修煉者が、昼休みを用いて仕事をしていると聞きました。これで、どれだけ奮発しているかの差が明らかになりました。条件付きの奉仕は、まるでかけ引きのような、自分のギャラより低くしてはいけないと格付けを定めるようなものです。こういう心理状態は非常に汚なく、師父の教えにある「大法弟子はみな神の道のりを歩んでいる」と分かっていながら、自分はまだ人の執着を離そうともしないし、前進を妨げて突破することができません。

 神韻公演の準備が始まるとき、自分から仕事を担当すると申し出ました。条件付きの奉仕だから、週末に限定して引き受けた仕事に当たっていました。これによって間に合わない未完成の部分は放置されたままでした。修煉者たちは私を指摘し、私も自省しました。大法を実証する仕事は自ら主動的に動き出すべきで、大法を実証する仕事自体も大変厳粛なものであり、一時的な感情をもって何もかも引き受けてはいけないことがわかりました。もし一旦引き受けたら必ず最後までやり遂げなければならないと悟りました。古人曰く、「黄金百斤より、季布の一諾がまし(季布が一度引き受けたら、黄金百斤よりも重みがある)」という諺が示すように、『真・善・忍』を修煉する私たちは、真実を話して真に事を動かすべきで、成し遂げられないくせに言いたい放題なら、本心はよいかも知れませんが、実は真に符合しません。ですから、「すべてを確認し成し遂げるなら修となり」、口で言うだけでは修ではありません。それは法に対して責任を取らないのと同じです。自分のせいで仕事がうまくいかない分は、他の人に予想外の時間と力を費やさせ、全体の進み具合が滞ってしまうのです。

 開演の日に舞台の天幕が開いたとき、洪大な慈悲に覆われたと感じて涙が止まりませんでした。思うに、神韻の到来を1年あまり待ち望んでいましたが、その中には自分の常人の心によって公演準備の仕事をうまく成し遂げられなかったことの悔しさと遺憾ばかりでした。それを補いたくても補えない実態となりました。

 万事休すということがあり、法が世を正すそのときが来たら、まさに自分の常人の心を取り除けない悔しさと遺憾だけを持って行くしかないのでしょうか? 今年は十分でないとしても、また来年出直せばよいといっても、もし法が世を正す勢いが来たら、まだどこに時間があると言うのでしょうか? もう何もが手遅れで、ただただ後悔しかありません。これは誰のせいでもなく、自分に責任を問うしかありません。ここでみんなが修煉しているのは同じ大法であり、師父はみんなが心性を高めるように按排してくださっています。しかし、自分を護ろうとする汚い執着心を離さないのなら、『転法輪』に書いてあるような「汚いものばかりを入れる瓶」に等しいことになりませんか? 

 師父は法の中でいつも私たちに時間がもうないと戒めておられます。今は「最後の最後」の時期なので、今の時々刻々は千金万金に値します。今回の神韻公演では、また違う角度から時間の緊迫さを察知できました。私たちはいくら仕事のなかで大法を実証してきても、必ず自分に根づいた様々な執着心をしっかりと取り除くべきで、真に自分を向上させて「円満になって師に従い元に戻る」のです。

 個人の体験談ですから、不当なところがあれば、慈悲にご指摘をお願いします。

 2008年7月2日

(中国語:http://minghui.ca/mh/articles/2008/5/4/177637.html
(英語:http://www.clearwisdom.net/emh/articles/2008/5/14/97298.html